by 晶山嵐子 GIREN-1
▼友達に教える.ご自分の携帯にアドレスを送る  ■ 曜歴一二五四年(六年前) 王都

 
  □ 白い時代


「ル・アに曜嶺皇家流の教育を与えろ」
 突然、羅季城にいた沙射は馬車に乗せられ、王都に連れてこられた。そこで、ガリ・ア王帝にそう命令されたのだ。
 ル・ア、と言うと、第三王子の?
 沙射は、通された大広間をぐるりと見渡した。
 壇上の玉座にガリ・ア、その下にキラ・シの髭の武人、周りに王宮のの衛兵らしい男達が何人かいるだけで、若い男子はいない。けれど、ル・ア王子はいずこに? と問えるほど、ガリ・アは気さくな雰囲気ではなかった。
 風の覇王、王帝ガリ・アは元々が西の天険、西鹿毛山脈という死地に住む、キラ・シという一部族の族長らしい。大陸人とは姿形がまったく違う。
 まず、肌が黄色い。大陸には、北方の白人、南方や砂漠の土色の肌、その中間色しかいない。黄色い肌、というのは誰しもが初めて見たのだ。
 北東の賀旨やマリサス、我火洲が大陸では一番寒い。東南の緑三国と中央の王都が温暖で米や小麦がとれやすい。車李やナガシュが砂漠で、留枝から南に掛けて乾燥が強い。ヘレムから南西は密林が多くなってくる。羅季はまだそこまでではないが、覇魔流は国全体が密林の中だ。海に生える木などという珍しいものもあり、そのおかげで津波が来にくいし特産物がたくさんある。
 羅季や貴信は、変な木が生えないのは良いが、普通の木も生えない乾燥した草原地帯だ。春は川が氾濫し、夏は雨が降らず、秋にまた大雨と氾濫があり、冬は西鹿毛山脈からの山颪が強過ぎる。雪は降らないが住みにくい土地だ。詐為河と西鹿毛山脈に終始攻められているかのようだった。覇魔流と貴信の通行税が無ければ生きて行けないだろう。
 ナガシュより南西の国は、肌の色が黒い場合が多い。貴信も覇魔流も羅季も、濡れた川砂のような肌色をしている。羅季に逃げてきた曜嶺皇家だけが、塩のように白い肌をしていた。キラ・シは西鹿毛山脈から降りてきたのだ。黒くもなく、白くもない肌は異様だった。
 キラ・シに敵対する者達は『反吐のような肌』と蔑んだ。出汁で煮込んだゆで卵のような肌色だ。
 滝が流れ落ちるかのようにまっすぐな黒髪。その質は大陸の白人と似ているが、もっと髪は硬そうでつやつやしている。長い前髪を、耳を隠して頭頂に結い上げ、他の髪と共に背に流していた。顔は役者がするように赤く隈取られていて表情などわからない。
 卵に刀で切れ目を入れたような鋭い瞳は漆黒だ。大陸の者達はわずかに灰色や茶色が入っているものだが、混ざりけの無い黒だった。
 ガリ・アは、二〇年ほど前に大陸制覇に乗り出したと聞いていなければ、精悍な若者に見えただろう。大陸では成人男性は髭を生やすのが常だ。ガリ・アの顎はまったく綺麗で、そこだけを見ると声変わりすらしていない子供のよう。
 ただ、曜嶺皇家も、髭の無い者が多いので、沙射はそれを珍しいとは思わなかった。実際、沙射もその父も髭は無い。
 その上で煌都では、男根を切り取った男子が宮中を差配する、宦官と言う制度があった。天帝(皇家)以外に髭を生やしていない男は宦官。そういう偏見をもたれることが多い。だから、男は髭を伸ばすものだった。煌都を至上としている国々では、自国に宦官がいなくても、その風習が強い。
 逆に東南の鎮季など、独自文化を持っている国々は、煌都に逆らうかのように男は髭を剃っていた。東南では、髭は余程手入れをしない限り、無精者の証しなのだ。古代国もそうだった。
 ガリ・アは、噂を聞く限り四〇歳を超えている筈なのに、二〇代の血気盛んな青年のようだった。だが、その外見と相反して、声は雄邁で朗々と低く、白大理石の大広間に良く響く。くったく無く高笑いをされると、反響するその声に沙射は耳が痺れ、押されるように一歩下がってしまう程だ。
 キラ・シ独特の顔の刺青は彼にもあった。両の目の下から頬へと、蛇がのたくったような線が紅色で刻まれている。黄色い肌に赤い刺青。特にガリ・アは目の隈取りと眉、額と顎にも紅を入れていた。役者がつける鬼の面のようにも見える。
 見事な黒髪は頭頂で結い上げられ、背中に垂れていた。髪の束ごとに黒光りする珠が留めつけられている。首にもじゃらりと牙の首飾りが重ねて掛けられていた。鷹揚な風情で、玉座から沙射を見下ろしているガリ・ア。肘掛けに左肘で頬杖をついている。ゆるやかに笑んでくれてはいたけれど。顔の紅のせいで表情はあまり読み取れず、威圧感だけを受けた。
 そこに存在するだけで数里先から風圧を受けそうだ。初対面の人間は、震えてへたり込んでしまったりするらしい。
 沙射が平気だったのは、他人の『迫力』というものがわからないからだ。
 この方が、わたくしの血族を殺し、わたくしを救って下さったかたなのですね。沙射はただ、その事実だけを認めた。
 悲しいとか、嬉しいとか、何も感じない。麻美が「おかわいそうに、おかわいそうに」と自分に対して言うたびに「オカワイソウ」というのはどういう意味なのだろう、と考えていた。何も不満など無い。かわいそうがられる部分など、沙射は自分に感じなかった。
「あの折りの子供か…………ほぉ……美しい髪だな」
 沙射を見たガリ・アの第一声はそれだった。
「お名付け頂きましてありがとうございます。初めて直にお礼申し上げることができました。望外の慶びにございまする」
 毎年、沙射の誕生月のたびに挨拶の書簡を出していたけれど、直に礼を言えて、沙射はようやく落ち着いた。いつでもガリ・アから誕生祝いの品は届いていたのだ。
 にっこり微笑んだ沙射を、ガリ・アは少し目を見開いて見つめている。口元に遊ばせている指の下で、くちびるがなにやら動いているようだ。ややあって、咳払いをし、ガリ・アは喋り出した。
「一八の男と聞いた」
「……わたくしは今年とって一八でございます。れっきとした男でございます」
「れっきとはしとらんな」
 ガリ・アの言葉の意味が、沙射はわからなかった。
「陛下を欺いてわたくしや麻美に何か利があると仰せでございましょうか?」
 沙射の反問に、ガリ・アは薄く笑う。皇子が死んだのをすり替えるのは十分利益があることだ。それを沙射が気付いているのかいないのか、別段ガリ・アは咎めなかった。
「伴の女に似て、度胸があることよ。まあよい。行け」
「ガリ・ア王帝陛下の頭上に幾久しく栄光輝かんことを祈って」
 沙射は臣下の拝礼をして大広間を出た。麻美はこの城に入った時に女官に連れられてどこかに行ってしまっている。沙射一人だ。ガリ・アの前を辞し、案内されるまま大広間からずいぶん奥に入った。案内人は扉の前で、キラ・シ語で自分の名前を名乗り、沙射の名前を告げ、そのまま沙射に、礼なのだろう、右手を挙げてどこかに行ってしまった。
 その礼らしきものは、最初にガリ・アに会った時にもされた。両手を広げるその仕種は、大陸での『こちらに来るな』に似ている。されるたびに、沙射は足が竦んだ。
 ひっそりと山間で引きこもっていて、大陸にその存在を知られていなかったキラ・シ。今でも、そんな民族が山間に多数いるらしい。
 大陸北東の山岳にいたナール・サス王の統治するマリサス国も、キラ・シとは系統が違うけれど、そういう隠れた部族の一つだ。ナール・サスは、マリサスとキラ・シを一緒に論じるな、と怒るだろう。キラ・シは『部族』でマリサスは『国』だ、と。だが、大半の人間には、そんな区別は意味が無い。
 自分達の知らない民族がいた。それだけの話だ。
 キラ・シは静かだった。ガリ・アが出てくるまで、大陸の国はキラ・シの存在をまったく知らなかった。
 西鹿毛山脈は死地だったのだ。何度も煌都から山岳踏査が入ったけれど、誰一人帰っては来なくて調査報告が上がらなかった。煌都の財政が逼迫した時に調査はやめられたのだ。
 西鹿毛山脈には、踏破できる道も無ければ、人も住んではいない。地の果てだ。そう煌都から発表していた。そこからキラ・シが降りてきたのだから大騒ぎだ。髪は浮浪者のように長く延ばし、服も毛皮を巻き付けただけの山男以下の風情。どう考えても未開の蛮族。山岳踏査の者達は彼らに殺されたのかもしれない、とみな思った。
 そんな部族が、たかが十五年で大陸を制覇したなどと、大陸のどの国も信じられない思いなのだ。大陸ではラスタートしか馬に乗らない。それなのにキラ・シはラスタートより大きな馬に乗り、大陸には無い鉄刀を持っていた。
 そして、強かった、のだ。それが大陸の誤算だった。
 戦術も何も無い蛮族だと嵩に掛かった国々は、真正面からキラ・シの剣技に切り裂かれた。
 書物を認めるすべを知らず、服を縫製する技術も低い。金銀で体を飾ることも無く、貧しい暮らしだったのだろうことは伺える。けれど、彼らは大陸を制圧してからも、金銀で体を飾ることは無かった。つまりは、体を飾ることが無いのは、貧しかったのではなく、金銀に興味が無かっただけではないだろうか、と沙射は考える。
 沙射とて、別段そんなものに興味は無い。特に金の装飾は重たくて、動くのが困難になる。キラ・シが生粋の戦士であると言うのならば、自分の体を重たくするものを身につけるとは思えない。ただ、実用本位なだけではないのだろうか。
 そんな部族を、自分達の価値観だけで『貧しい』と言ってしまう、大陸の者達の心が、貧しい。そう、沙射は感じた。
 そういえば、第三王子のル・ア様と言えば、美女面を造り替えたル・マ王妃の御子息ですね。ル・アの部屋の前で、沙射はふと気付いた。母君に似てらっしゃるだろうか。父君似でいらっしゃるだろうか。それを考えると、沙射は少しだけ楽しくなる。人と会うのが楽しいと思ったのは初めてで、沙射自身にもその気持ちが何か、わかってはいなかった。
「沙射様は、そのお面に恋してらっしゃるようでございますね」
 そう、麻美に言われたことがあった。暇があればその面を眺めていたのは本当だ。だって、本当に美しいのだから。
 麻美がキラ・シの兵士から貰ったものだったが、早々に譲り受けて、沙射の一番の宝物だった。今回も、王都に来る時に持って来ていたのだ。
 キラ・シの舞にはつきものの美女面。一重で切れ上がった瞳に卵のような輪郭。小さく微笑んだくちびるはキラ・シ紅で飾られている。
 キラ・シが来るまで、大陸に口紅は一般的ではなかった。『丹』塗りが大陸でいう『赤』だ。それは水銀を使うことから、肌に塗ることは忌避されていたし、高価だったので、富豪や王族貴族しか着けることができなかったのだ。
 それを血のような赤に変え、庶民にも使えるようにしたのはキラ・シの持って来た紅花だ。
 キラ・シは自分達が凌辱をくわえた人間に印をつける。男女構わず犯す上に、自分が抱いた人間のくちびるを紅花の汁で染めた。最初こそ、それはキラ・シの暴行を受けた証しとしてみな嘆き悲しんでいたけれど。それを女の艶が上がる、ということで鎮季の花柳界が取り入れたことで、今では女性や貴族や富豪の化粧の基本になったのだ。
 そして、実際に美しい色なので、すぐに服飾にも取り入れられ、『キラ・シ紅』として流通している。これはキラ・シが変えようとして変えたものではなかった。
 キラ・シは頬に紅で模様を描いている。その紅の材料が紅花だった。キラ・シ紅の原料である紅花を、キラ・シは自分達が使うために大陸のあちらこちらで栽培させた。元は雑草だったので、それは簡単に繁殖し、安価に紅の材料を手に入れることができるようになったのだ。その紅花でくちびるを彩られた女面は、実際に美術品として美しかったので、大陸で、新しい様式として受け入れられた。
 面全体を黄色で塗り、なだらかに彩る黒で黒髪を、紅花で目尻とくちびるを染め抜いただけの面だ。単純な線だけで構成された女顔。額飾りや特別な化粧も無い。それでも、すっきりと美しい。
 キラ・シの『シ』を『司』として、それは『司美』という体裁を取る。羅季独特の、複雑な線で描く模様より、単純な線で美を追究する様式美はあっと言う間に大陸で確立されて行った。
 その面がガリ・アの妃の顔なのだと言う。そして、これから会うル・ア王子はその息子だ。とても楽しみだった。
 それで、わたくしはどうすれば良いのでしょう……?
 沙射は両開きの扉の前で立ち尽くす。 扉は、麻美がいつも開けてくれていたために、沙射は自分で扉を開けることを思いつかなかった。大体、中からいらえが無いのに入るのも失礼だろう。先程、沙射をここまで連れてきてくれた人が扉を開けなかったのだから、中で何か用事をしているのだろう。焦りもせず、沙射は待っていた。だが、いかんせん長過ぎる。
「どうした? 沙射皇子であろう? ル王子の教育係として来た。入れ」
 扉の前で待っていた沙射に、通り掛かった宰相のリョウ・カが寄ってきた。
 キラ・シの軍人は、誰もが言葉尻がきつく、言葉が早く声が大きい。しかも、キラ・シの人間からすれば、羅季語は他国語。今に至ってもほとんど話せない者の方が多い。羅季城でも、軍人達が互いに喋っている言葉は沙射にはわからなかった。内通者がでないようにわざとキラ・シの民だけを配置されたのかもしれない。
 赤い隈取りに熊のような髭面で強く言われると、まるで怒鳴られているように感じ、圧されるように、沙射は自分で扉を開けて中に入った。
 誰もいない。そこは大きな居間のようだ。一〇人ほど人がいても狭く感じなさそうだった。
 山のような竹簡と帛(白絹を書簡としたもの)が積み上がっていた。卓にも長椅子にもそれらが開かれて掛けられている。それは整然としてはおらず、読むのをやめた時に巻き取らずに掛け、また別の書物を手にとった、という粗雑な印象だ。床にも、開いたままの竹簡がたくさん転がっている。書棚にも、竹簡や帛が山のように積み上げられていた。
 棚のそれらは、尻に色が塗ってあり、棚ごとに黄色、赤、緑、などと色が別れている。散らばっている竹簡も、端が塗られていた。床に落ちている竹簡は色がついていない。机の隣に、開かれた竹簡が山のように重ねられている。
 机の上には、絵の具が何色か、浅い皿に溶かれておいてあった。それが、書棚に置いてある竹簡に塗られていた色と同じだと沙射は気付いて驚く。竹簡の内容ごとに分類して、色分けをしているのではないか?
 こんな方法があったのか! と沙射は感動した。
 羅季城の沙射の手元にも、何千巻という竹簡がある。商人が来る時に山のように持って来てくれるからだ。市井の歌だったり、どこかの物語だったり、これは門外不出ではないのかというような軍事文書があったり、色々だ。
 端から沙射はそういうものを読んでいたけれど、次に読み返したい時に、いつも探しきれない。
 読み返したいものを部屋に置いて、他を隣室に保管していたけれど、部屋の中でも竹簡で一杯になってしまうし、あの竹簡を読みたいと思い出しても、どの竹簡かわからない。
 だがこうして色分けしておけば、大体の場所はわかる。千巻を探し直すよりは、色分けした中の数百巻を探す方が簡単だ。
 普通はこういうふうに分類するものなのですね。わたくしは考えが至りませんでした。思わず、沙射はル・アのことを忘れて書棚を眺めてしまった。
 一番手にとりやすい場所にある棚の竹簡を手にとって広げる。読んだことの無い書だ。思わずそのまま読み込もうとした時、何がしかの声を聞いた。顔を上げて辺りを見回す。誰もいないが、ここが自室ではなかったことを思い出し、慌てて竹簡を巻き戻して棚に置いた。声がどこからしたのか、部屋を歩き回る。
 呼ばれたのだろうと、入って来たのとは反対側にある扉に向かった。この部屋にいなければ、その扉の向こうだろう。
 ガリ・アが占領したこの王都は、昔の羅季の煌都。沙射の家系は追われ追われて西の辺境に移動していたけれど、この城はその当時からのたたずまいだ。当然、沙射が見たことのある筈は無いが、羅季の装飾だった。辺境にあっても沙射の父や父祖が買い集めた羅季の調度品。それと文様などが一緒だったのだ。初めて来た城なのになぜか懐かしい感じがしたのは、そのせいかもしれない。その、羅季の文様を削り出した大きな両扉は、羅季の色ではない紅に塗られている。声はこの扉の向こうからしていた。
 自分を呼ぶ声だったとすれば、問い返しては失礼になるだろうか。把手を触ってみると鍵は掛かっていない。やはり、呼ばれたのだろう。
「失礼します」
 沙射は小さく声を掛けて扉を開けた。一礼して顔を上げ、真正面の寝台で、全裸の女性が沙射の方を向いて激しく動いているのを見た。甲高い嬌声を上げている。
 それがどういうことか、沙射は気付かなかった。
 沙射の周りの女性と言えば、すでに婚期も過ぎた麻美しかいない。あとは全員キラ・シの軍人達だった。城の細々したことも全部男がしていたのだ。男だと気が回らない、と麻美がずっとぼやいていた。
 だから、女性の裸を沙射は初めて見たのだ。性教育などされていないから、それが恥ずかしいものだ、とか見てはいけないものだ、という観念も無い。
 女は狂ったような笑みを浮かべて体を揺さぶっていた、沙射が入ってきたことなど気付いてもいないらしい。甲高い嬌声を上げ続けている。沙射は珍しい歌か何かだと捨ておいた。聞きほれるような声ではない。
 ル・ア王子はどちらにいらっしゃるのだろう。座興で女が舞でもしているのかと、部屋を見渡す。その部屋には、天蓋のある大きな寝台と小さな卓。そして、先程の部屋と同じように積み上げられ、崩れ、散乱した書物類。向こう側は窓で、回廊から庭に降りられるらしい。
 羅季城の窓は木で、開ける時はつっかい棒を立てる、閉めると暗い。こちらの窓は、枠が木で、白い布を張ってあるようだった。だから、風は入ってこないのに陽は入って明るい。だが、その明るい部屋の中には、寝台の女性以外人がいない。高官のリョウ・カが入れと言ったのだから、部屋の中に王子がいる筈なのだ。
 女性が甲高い悲鳴を上げて寝台に倒れ込んだ。明らかに失神している様子に沙射は焦る。他人が倒れた所など見たことは無いけれど、先程まで動いていた人間が意識を失ったように見えては捨ておけない。どうかしましたか? と声を掛けようとして、他にも人がいることにようやく気付く。寝台にいたその人物と沙射は目があった。
 あ。あの美女面のかただ。沙射は真っ先にそう気付いた。そして、その美女面の女性の息子なのだと合点する。余程、失神している女性より美人だ。
 彼は寝台に仰向けに転がっていた。延ばした両肘を寝台につき、沙射を見上げている。まっすぐな黒髪が、滝から流れ落ちた水流のように寝台にこぼれていた。刀で切り上げたかのような、一重の鋭い黒漆色の瞳。細い顎。すらりとした鼻。額に駆け上がる弓月の眉。無駄なものをすべてそぎ落としたかのような美貌だ。黒い瞳がけだるく濡れているのも艶がある。わずかに開いたままの薄いくちびるを、長い舌が舐め上げた。つらりと光る大きな口。それは小暗く歯を見せて沙射に向けられている。その中で舌がうねるのが、まるで蛇の胎動のよう。
 ドクン、と。沙射は自分の体が熱くなったような気がした。口の中が乾いて言葉が出て来ない。緊張しているのだ、と自分を鼓舞して顔を上げる。顔だけを見ていて、彼が服を着ていないことに気付かなかった。
『ル・ア様とお見受けします。お初にお目にかかります。羅季の沙射と申します』
 沙射は、軍人を問いただして教えて貰ったキラ・シ語で挨拶をした。キラ・シ語には『王』『皇帝』という言葉が無いので身分が名乗れない。当然『族長』はあるけれど、王子のル・アに対して族長とは呼べないし、皇家皇子である自分を族長とも名乗れない。
 ガリガリ、と頭を掻く音と共に、寝台が揺れた。長い裸の膝が立てられ、そこに頬杖を着くような形で彼は顔を覆っている。これだけ寝台の影になっていると、肌が黄色いのか白いのかは見分けがつかない。闇色をした髪が流れる中に、指が白く浮かび上がる。それが、湖で白鷺が首を出しているかのようだった。
『誰だって?』
 キラ・シ語で問い返された。
 顔といい頭といい、蜘蛛のような長い指でかき回して彼は問い返してきた。わずかに掠れた、不機嫌そうな低い声だ。かろうじて、名前を聞き返されていることが沙射にもわかる。羅季に駐屯していた軍人は、故意に沙射と口をきかないように申し渡されていたようで、挨拶を覚えるので精一杯だったのだ。
『羅季の沙射と申します』
 教育係を申しつかりました、とまで、キラ・シ語では言えなかった。
『だから、誰だ。どうしてここにいる。なぜ下がらない』
 羅季語ではない言葉が聞こえて、沙射は羅季語で問い直した。
「…………申し訳ありません、キラ・シ語は挨拶しかわからなくてお言葉が理解できませんでした。改めまして、ガリ・ア王帝から第三王子殿下の教育係を仰せつかりました沙射皇子です。ル・ア王子でいらっしゃいますよね?」
「教育係? 俺の?」
「はい。そう仰せつかりました」
 羅季語を喋ってくれた、と沙射は安堵する。
 ガリガリ……、と眠たげな風情で彼はまだ寝台の上で頭をかき回していた。
 骨ばった長い手足がゆらゆら揺れる。十分長いが、細い。筋肉がまだつききっていないようだ。一四歳ならば細さは妥当だが、長過ぎる。
「リョウ・カを呼んで来い」
「……はい。かしこまりました」
 眠くていらっしゃるのだろうか。と沙射は自問自答した。
 この話を使者から聞いた時、沙射はまず、第一第二王子には他の誰が教育係についているのだろう、と考えた。誰がその二人についていて、三人目が自分なのだろう、と。
 名ばかりとは言え、沙射はこの大陸を統べていた皇帝の直系だ。その直系が自分の下にいることを世に知らしめるための教育係ならば、跡継ぎのそれにしないだろうか。それとも、そんなことはまったく考えず、顎で使える人材として、一番自堕落な王子の躾けに入れられただけだろうか。
 立場的に目下とは言え、客が来るというのに全裸で寝台にいたなどと、礼儀以前の問題だ。沙射に対する、手の込んだ嫌がらせなのかもしれない。この広い王宮で、どう探し人を見つければ良いのだろう。沙射がそう考えながら居間を出ると、廊下にリョウ・カが立っていた。
「早いな、何か不都合があったか?」
 沙射を心配して、ついていてくれたらしい。
「いえ、王子があなたをお呼びです」
 リョウ・カは意味がわからない、という顔をしたが、とっとと中に入っていく。
 沙射がリョウ・カのあとをついて先程の寝室に戻ると、扉を開けた瞬間、何かが飛んで来た。咄嗟にリョウ・カは身をよけたけれど、沙射は目の前に風圧を感じて硬直する。それは寝台に置いてあったのだろう、青銅の燭台だった。
 こんなものが当たったら、大怪我をするではないですか!
 先程の風圧を思い出して、沙射は背筋を凍らせる。こんな王子に何を教育しろと言うのだろう。キラ・シが野蛮な部族だと言っていた商人の噂は本当だったのだ。
『どうした? ル・ビア。珍しく、腹でも痛いのか?』
『……それは誰だ……』
 沙射が恐る恐るそっと部屋を覗くと、二人は羅季語ではない言語で会話をしていた。まだ眠たそうな声でル・アは寝台に座っている。先程女性がいた所は厚手の上掛けが掛かっていて、女性がいるのかいないのかはわからない。たんに彼が寝ているだけに見えた。
『羅季の皇子だ。ル・ビアの教育係に入る』
『今日の約束か?』
『ああ。今日この時間に。昨日キル・シュが伝えた筈だ』
『初耳だ』
 笑顔で寝台を覗き込んでいたリョウ・カが、とたんに青ざめた。頬に紅を刻んだ顔をしかめて沙射を振り返る。自分が何か悪いことをしたのかと考えたけれど、そこで咄嗟にどこかに隠れるような機敏さを、沙射は持っていなかった。そろりとその扉のこちらがわへと体を移動させた。
『大事なことは直接言いに来いっ! 俺を恥知らずにしたいのかっ!』
 沙射が隠れた直後、罵声とモノの壊れる音がけたたましく響く。そこからあとはキラ・シ語の罵倒だった。声からするとル・アが叫んでいるらしい。完全に目が覚めたのだろうか、先程の声の掠れが無くなっている。ガリ・アの声をわずかに高くした、朗々とした声だ。壁の向こうで叫んでいるのに、まるで隣で耳元に向けて怒鳴られているかのような声量だった。
 ややあって、おもむろにリョウ・カが寝室から出てくる。その額を押さえている手からは血がしたたっていた。沙射は思わず後退ったあとで、懐から絹を出して彼に差し出した。やんわりとそれを押し返される。
「すまぬ。こちらの手違いでル王子にあなたが来ることが伝わってなかった。一刻待ってくれ。庭に座を設ける。休んでいてくれ」
 伝わっていなかった、って……王子が忘れていただけではないのですか? こんな暴力王子の相手がわたくしに勤まるのでしょうか。自慢にはなりませんが、わたくしは腕っぷしは全然駄目ですよ。そう顔に出ていたのだろう沙射に、リョウ・カは真剣な顔で向き直る。
「ル・ビアは約束を違える方ではない。あなたが来ることの返事を聞いてなかったから、あなたをからかおうとでもしているのかと考えていた。話が通ってなかったのであれば、こちらの手落ち。これはその罰の一つ。無意味に手を挙げる方ではない、安心してくれ。これ、そこの女官。沙射皇子を庭でもてなせ」
 あからさまに困っている様子のリョウ・カが去っていくのを、沙射は見送った。庭に案内されて丹塗りの卓に着く。白い絹を掛けた上に、豪華な茶と軽食の皿が運ばれてきた。羅季で摂る、沙射の食事を三倍した程の質と量だ。もう一つ椅子が置かれているのは、ここにル・アが来るのだろう。
 庭は羅季風の庭園だ。小川も小山も美しく整えられていた。羅季であれば丹色の筈の橋が真っ赤に塗り直されている。キラ・シ紅は良い色だが、新緑の芝生の中にそれは目に痛い。
 沙射は側にある建物を見た。漆喰の壁に柱が丹塗りで、ゆるやかに舳先を上げている屋根瓦も丹、梁は黒。白と赤と黒で統一された、羅季独特の王宮だった。
 歩いてきた筋道を頭の中で組み立てると、そこが先程のル・アの寝室の筈だ。窓から外に出られるように回廊があり、石段が沙射のいる卓の方へと降りていた。
 そこに人影が現れる。沙射より頭半分も高いだろうか。白い外套をまとっているかのように裾をひるがえして沙射の方へ歩いてくる。服は羅季のものに似ていた。内着の黒い袖の上に、淡い新緑色を重ねている。裾が風で揺れていた。ただ、その上衣は女物だ、と沙射は見た。結っていない黒髪が、紅塗りの回廊を背にして舞い上がる。その髪を抑えるためか、長い右手を頭にやって髪をかき上げていた。
 黄色いのは黄色いけれど、ガリ・アよりはずいぶん白い、覇魔流特産の象牙のような肌色だ。その左頬にキラ・シ紅で模様が描かれている。それが無ければ、大陸でも美女で通る美貌ですね、と沙射は見とれた。否、その目元の紅がいっそうに艶を引き上げている。
 沙射を見て、両掌を広げて見せた。掌を相手に向けて出すのは拒否の印だ。沙射は一瞬、恐怖にビクッ、としたが、その笑顔からするとどうやらキラ・シの挨拶らしいと理解する。そういえば、ガリ・アにもリョウ・カにもされたのだ。
「先程は失礼した。キラ・シのル・アだ。遠く羅季からはるばるようこそ」
 流暢な羅季語だった。そのあとで手を合わせて、頭を下げない羅季礼をされる。
「……ありがとうございます。こちらこそ、お時間をとって頂いて申し訳ありません。改めて、羅季の皇子、沙射と申します。今後とも、よしなにお願い申し上げます」
 沙射はル・アが傍に来たので立ち上がり、羅季礼で手を合わせたまま、軽く辞儀をする。やはり、身長は沙射より頭半分高い。横幅はわずかに太い。太いと言っても、沙射はとても細いので彼が標準なのだろう。
「時間をとらせたのはこちらだ。話が通っていなくてすまなかった。いつもはあんな失礼はしない。あの時に邪魔されるとタガが切れる。今回はあなたが知らない顔だったのでどうにか我慢していたが、万が一同じようなことが今後あったら、全速力で逃げてくれ。咄嗟に手近のものを投げるからな。枕だと幸運だぞ。いいか?」
 椅子に手を掛けて愛想を振られ、沙射はどうぞどうぞと椅子を勧めた。元々が、ここはル・アの領分だ。
 傍若無人というよりは、道理の通らない乱暴者だという先入観ができてしまっていたので、着席することを断られると考えていなくて驚く。
 先程のことにしても、リョウ・カは『沙射をからかうつもりかも』と考えたらしい。つまりはそういうからかいを初対面の人間にすることもある人間性なのだ。気を抜けるモノではない。
 それにしては、上手に箸を使うし、仕種などは決して粗暴ではない。声の抑揚が高く、無遠慮に大きくなるが、野卑というよりは音吐朗々たる響きだ。本当に今回のことを聞いてなかったのだ、と納得できる紳士的な態度だった。
「変な食べ方をしているか? 何を凝視している」
「……失礼致しました。箸を上手にお使いになると思いまして。上げ下げまできちんとされているのに驚きました」
 羅季城の軍人達は食事は手づかみだったように沙射は記憶していた。確かに、粗野で荒々しい者達だったけれど、軍人だからそうなのかとも思える。
「練習したんだ」
 ル・アは事も無げに言った。そして、箸を置いて沙射に掌を広げて見せる。その動作にまた、沙射は内心及び腰になった。それにル・アが気付いたらしい。
「ああ、すまない。これはキラ・シ礼だ。手の中に武器を持っていない、というシルシで、羅季の『こちらに来るな』とは意味が違う。できるだけあなたにはしないようにするが、キラにとっては生来のものだ。悪いが慣れてくれ」
「……ぁあ、はい……。キラ・シの礼儀なのだろうとは思っていたのですが……そういう理由なのですね。では、羅季礼の、手を握ってされる礼は、あなたがたにとってどういうものなのですか」
「即殺の対象だ」
 まるで料理の品数を数えるかのようにル・アは告げた。
 わたくしは先程、羅季礼をしたような気がしますが……と、沙射は青ざめる。
「手を握られると、武器を持っていることがわからない。吹き矢の可能性もあるからな。毒の吹き矢だと、子供でも大人を殺せる武器になる。一番警戒するのがそれだ。
 キラ・シに向かって羅季礼をするなというのはかなり広めた筈だが、聞いていないか?」
 そんな噂は聞いたことも無い。大体、沙射が会えるのは商人だけだ。商人は大体なんでも話が早い。その商人が知らないのであれば、周知徹底されているとは言えないだろう。
「はい……存じあげませんでした。王帝にも、羅季礼をしました。何も言われませんでしたので、気付きませんでした」
「父上は、羅季礼を知っているし、万が一相手が武器を隠していたとしても勝てる自信がおありだからな。吹き矢は手っ甲で受ければ良い話だし……、弱い戦士ほど羅季礼に敏感に反応する。だが、羅季礼はするなという命令が届いていないのは問題だな……」
 ふむ……とル・アは口を閉じて考え込んでしまった。
「とにかく、今後キラ・シと付き合うのならば忘れないで欲しい。キラ・シは、羅季礼をされると、即座に相手を殺す。最初はこの王宮でもみながしたから、止めるのが大変だった。
 あなたがたが羅季礼をするのと同じで、キラ・シもキラ・シ礼をするし、羅季礼を敵対行為だと感じるのは魂に刻まれている。あなたがたが千年羅季礼をしていたように、キラ・シも千年キラ・シ礼をして来た。譲れる問題ではない。
 キラ・シ礼をあなたにしてもキラ・シの命に別状はないが、羅季礼をキラ・シにすれば殺される。命が懸かっているのはあなたの方だ。あなたが注意して欲しい。キラ・シに羅季礼はするな。殺されるから。羅季人同士で羅季礼をして貰うのは構わない。俺も、まぁ……気にはしないようにしている」
「……わ……かりました。気をつけさせて頂きます」
 沙射は胸元に拳を作って握り込んだが、慌てて指を開いてル・アにみせた。
「そこまで硬くならなくていい……と言っても無理か。初めて聞けば誰でも怖がる。それより、辛巳という商人があなたの元へ行ったことはあるか?」
「……申し訳ありません。商人の名前を覚えてはおりません」
「謝って貰う必要はない。こちらで調べよう。食事中に悪いが、少々付き合ってくれるか?」
 その商人がなんだと言うのだろう。沙射の疑問をよそに、ル・アが立ち上がったので沙射も付いていく。
「あなたがこの王宮に来てから会った人物を教えて欲しい。隠さずに」
 王宮の中を歩いて、ル・アが告げた。
 女官長と大臣と数人の役人を紹介される。名前は覚えていないが、大臣と役人はわかった。該当しなかった女官長が慌てて去っていく。残ったのは慈然大臣だった。でっぷりと太った、和やかな笑顔の老人だ。ここまで太れたら凄いな、と沙射はよく覚えていた。
「お前が、沙射皇子を出迎えて、大広間まで連れて来たのだな? 慈然」
 ル・アは老人に向かって居丈高に問い掛ける。彼が沙射を迎え出ることを名乗り出たらしい。つまりは、高位の歴史長い貴族なのだろう。
「はい。おそれ多くも、わたくしが露払いをさせて頂きました」
「皇子と喋ったか?」
「……ありがたくも、幾たりか、お言葉を頂戴致しました。光栄なことと存じあげまする。我が先祖も、喜んだことでしょう」
「皇子、この男に声を掛けられたか?」
「はい」
「何を言われた?」
「足元に気をつけて下さい、とか、光栄ですとか……」
 そんなに大した話はしていない。詮議の行方がわからず、沙射はいぶかしんだが、次の言葉で目を見開いた。
「なぜ、皇子に、『キラ・シに向かって羅季礼をするな』と教えなかった?」
 ル・アの言葉に、辺りにいた女官や衛兵までが青ざめた。全員が、ル・アを見て、大臣を見る。大臣は、周囲から矢が刺さったかのようにガクガクと震えてうろたえた。
「キラ・シに向かって羅季礼をすれば殺されると、お前達はよく知っている筈だ。なぜ、初めて王宮に来た皇子に、それを伝えなかった?」
 大臣が、血色の良い垂れた顔を蒼白にしてガチガチと歯を慣らす。その顔に、謝罪は感じ取れない。わざとしていたのだ。
『戦士二人! この男を牢屋に連れて行って、良いと言うまで見張れ! 誰とも会わすな! 取り次ぐな!』
 突然、ル・アがキラ・シ語で怒号を発した。沙射はその声に驚いて耳が痛くなった。それと同時に、キラ・シの戦士が二人走ってきて、大臣の両脇をガツッと固める。
「お……王子…………わたくしが、何を致しましたか? 皇子に羅季礼のことを話さなかっただけで捕縛でございますか? 曜嶺皇家の御嫡子にお会いできるということで、緊張して忘れていただけでございますよ」
「その大事な大事な曜嶺皇家御嫡子が、羅季礼をして殺されることを回避しなかった。足元がすべることよりも、先に言うべきは羅季への注意ではないのか。緊張して口を聞く余裕が無かったのならばまだしも、ぺらぺらと喋っておいて、一番大事なことを、皇子の命に関わることを教えなかった。お前はまったく曜嶺皇家を慮ってはいない。沙射皇子が父上に羅季礼をして、うっかり殺されれば、皇帝を殺したとしてキラ・シ打倒の火の手を上げやすかった……そんな所だろう」
 大臣は腰を抜かして黙り込んだ。自分にそんな謀を仕掛けられていたと知って、沙射も青ざめる。
 自分などいらないのではないか、と感じていた。それが、現実としてのし掛かって来たのだ。
 ル・アに聞いた時点では大袈裟に言っているだけだろうと考えていた。だが、あの大広間で、ガリ・アに羅季礼をして、殺される可能性は、真実、高かったのだ。
 それを、羅季人に、謀られたのだ。
 それを、キラ・シのル・アに助けられたのだ。
 果てし無い絶望感に、沙射は打ちのめされた。
「皇子は、キラ・シに羅季礼をするな、という触れを一度も聞いていない。この二年、俺はずっと触れを出し続けた。この王都では、もうキラ・シに羅季礼をする者はいない。つまりは商人達も全員知っていることだ。だが、商人達は王子に言わなかった。
 皇子の元を訪れた商人に、お前が口止めしていたのではないのか? 万が一、万万が一、父上が皇子に会う時に、皇子がうっかり羅季礼をして殺されるように、と」
 大臣は、もう何も言わなかった。
「連座するものをすべて探し出せ! 一族郎党、中央広場に晒せ! 『曜嶺皇家誅殺の徒』と首に掛けてな! 刑罰は羅季の法に照らす! 行けっ!」
 ル・アが大臣を呼んだことで、集まって来た役人達が、ル・アの言葉を書き起こして走っていく。
 一通り指示を出して、ル・アが沙射を引っ張り上げてくれた。廊下にへたり込んでしまっていたらしい。
「あなたは父上の客だ、沙射皇子。誰にも、殺させはしない。安心してくれ。食事の再開をしたいが、歩けるか? 歩けないならば、抱いて連れて行く」
 食事をしない、という選択は無いのですね、と沙射は思った。だが、ル・アがきららかに笑ってくれたので、少し緊張がほぐれる。
 たがが数刻喋っただけだった。それで、沙射の元へ連絡がいかなかった不備を疑問とし、反乱分子を探し出したのだ。彼らが生き残っていれば、沙射の命はじんわりと危なくなっていたことだろう。自分で暗殺するのではなく、キラ・シに殺させようとした。どす黒い王宮の暗部に沙射は呼吸すら苦しくなった。
「やり方が遠回し過ぎるから、直近の反乱には繋がらない者達だろう。その分、根が深い筈だ。今のうちに見つけられて良かった。あの大臣も、キラ・シに協力的だった」
 最後の声は、とても残念そうな響きがあった。
「縁の深い大臣だったのですか?」
「大臣に縁の薄い者はいない。だが……まぁ、……ああ、そうだな。他の大臣よりは、キラ・シを大事に扱ってくれていた。今日から、大粛清になるだろうな……」
 長い指で額から髪をかき上げ、大きくル・アは息をついた。そして沙射に微笑み掛ける。
「あなたを王都に呼ばなかったのは、こういう危機があったからだ。キラ・シは、曜嶺皇家の扱いを知らんからな。皇家に無礼だ、と父上を突き上げることは簡単だ。
 この王都を制圧した時に、あなたをさっさと呼ぼうと父上は仰っていた。それを止めたのは俺だ。窮屈な思いをさせてすまなかった」
 やはり動けなかった沙射は、ル・アの胸に抱き抱えられて先程の卓に戻った。すでに冷めている料理でなくても、箸など進む筈が無い。
「あなたの扱い方がわからなかった。王都は荒れ果てていた。巷の、曜嶺皇家に対する慮りは甚大だった。この王都でも反乱が頻発していた。とてもではないが、あなたを呼べるような体制ではなかった。軽々しくあなたを傍に呼んでは、民の怒りがキラ・シに向く」
「……では、今回御招致下さったのはル・ア王子でいらっしゃる?」
 言ってしまってから、ガリ・アの客だと言われたことを思い出す。
「いや、父上だ。驚かすつもりだったのだろう。本当に何も聞いていなかった。何か、秘密の馬車が出たなとはわかっていたが、父上の指令だったので追跡しなかった。俺が呼んだのならば、先触れの大臣に、あなたに対して羅季礼をするなと言い含める。絶対にな」
 かつかつと箸を運びながら、ル・アはニコッと笑った。
「すでにあなたは俺の客分でもある。客を手の内で死なせることは最大の不備だ。安心してくれ。俺がいる」
 ル・アの言葉と同時に、ふわりと風が吹いた。
 ル・アの後ろから吹いたそれは、ル・アの、長く艶やかな髪を舞い上がらせ、ル・アの笑みに花を添えたようだ。右手の長い指がその髪を押さえるように梳きほぐし、首も右側に傾く。それがまるで少女が小首を傾げているように見えて、沙射は微笑んでしまった。
 先程大臣に怒鳴った時のあの恐ろしい顔と、今の笑顔、どちらも本物なのだろう。そう自分に言い含めて、沙射は落ち着いた。
 先程の『怖さ』は沙射を護るための怖さだ。それを沙射が怖がる謂われはどこにも無い。
 皿が全部空いたので、ル・アが新しい皿を持って来させた。
「さぁ、温かい皿が来たぞ。食べてくれ。もっと食べてもっと大きくなれ」
「そんな……樹木に水をやるように仰らないで下さい。人はそうそう伸びません」
 くすりと沙射が笑ったので、ル・アはもっと笑った。ル・アが笑ってくれたので、沙射はようやく心のそこから安堵する。
「最初から大騒ぎですまないな。明日からもっと大きな騒ぎになる。しばらくは騒々しいぞ」
「……はい…………ですが、わたくしを護って頂いた末のことです。わたくしが迷惑に思う謂われはありません」
「ああ、それならば気にしなくていい。キラ・シの売名行為でもあるからな」
 心苦しく感じていた沙射は、『売名行為』という言葉に眉を寄せた。
「父上は以前から、あなたを廃する気は毛頭無かった。だが誰もそれを信じない。それを信じさせるための手段をずっと考えていた。あなたをキラ・シが救った。そして、実際に羅季人があなたを殺そうとしたという『事実』を周知徹底させれば、キラ・シは曜嶺皇家を擁護する気がある、という絶大なる証拠になる。これで巷の者達も信じてくれるだろう」
「『曜嶺皇家誅殺の徒』とは、そういう意味で……?」
「そうだ。あなたを助けたことで、キラ・シは名が上がる。だから、あなたは気にしなくてもいい。キラ・シにも得な捕り物だった。負担とは受け取っていない」
 沙射は、ぽかんと口を開けてル・アを見つめた。
「感謝したい気持ちは無くなっただろう?」
 ニッと笑われて、頷く。
「それでいい。堅苦しくならなくていい。誰もが、他人のためだけに動いてはいない。あなたを助ける者は今後もいるだろう。それらは、あなたを助けたことで利益を得ている。だから、恩義を感じているように見せて、顔と名前を覚え、心では忘れるがいい」
 沙射は、ル・アの言葉が一瞬わからなくなったが、なぜか、心に沁みた。
「あなたが背負う『曜嶺皇家』というのは、生易しいものではなかろう。こんなことで怯えていては、生きて行けない。忘れろ」
 沙射を、軽んじて売名に使った訳ではないのだろうか。なぜ自分がル・アの言葉に安堵しているのか、沙射にはわからなかった。
「キラ・シは、山で千年以上の永きにおいて絶大なる強さを誇って来た最強部族だ。その上で、父上は、その滅亡を救った最大の英雄。俺はその息子だ。長男ではないからまだ荷が軽いが、『族長の息子』という『名前』は重た過ぎる。その父上があなたに慮っているということは、あなたの肩には俺以上の『名前』がのし掛かっている筈だ」
 ごくり、と沙射は生唾を呑み込んだ。
 ル・アの黒い瞳が、まっすぐに沙射を見つめている。
 炎のようだ。闇より黒い瞳に対して、初めて沙射はそう感じた。黒を見て炎のように見えるというのは、どういうことなのだろう。熱など、ある筈が無いのに。光など、ある筈が無いのに。
「死にたいか、生きたいか」
 そんな問いに、他の答えがあるだろうか。
「生きたいです」
「ならば、俺があなたを利用したように、あなたも俺やキラ・シや、他の者達を利用して、生き残れ」
 沙射は産まれてこのかた、麻美と以外喋ったことが無い。今日、ガリ・アと話をし、ル・アを目の前にしている。
 羅季城での生活がどれだけぬるま湯なのか、この一時(二時間)程で思い知らされた。
「まずは教育係なんだから、俺を頼れ。傍にいろ。手の届く範囲では護ってやる。逃げたら知らん。たまに殴るが、巧く避けろ」
「勿論、頼らせてはいただきますが、避けるのは無理です。きっと……」
 先程の、燭台が飛んできた勢いで何かをされれば、沙射に回避は不可能だ。
「する前から無理だと言うな。して無理ならなりたい姿に向かって努力しろ」
 すでに羅季語を習得しているル・アにそれを言われては、反論の隙がない。この人はそうして生きて来たのだろうことは、世間知らずの沙射にでもわかる。
 あの書簡の管理の仕方。たった数回言葉を交わしただけで反乱の糸口を見つけた機転。そして、外国語である羅季語をこれだけ使いこなす知能。そして多分、武術も幾ばくかの実力を持っているのだろう。
 その上で、美人だ。先程でも、すれ違った女官や姫達が頬を染めてル・アを振り返っていた。
 こんな人に、何を教えろと言うのだろう。今さら、教育係など必要なのだろうか?
「これから先、世事は必要ない。できていない時はできていないと言ってくれ。あなたの格を一〇として、どの段階でできているのか数字で言ってくれ。この箸の使い方はどの格だ?」
 もう、何事も無く平静な会話になっている。沙射はまだ、あの反乱での動悸が抜けていないのに。
「…………はい……わたくしが一〇でしたら七、かと」
「七かー……もう少し精進するとしよう。そら、手本のためにもっと食べてくれ。箸はまだ二年目だからな。難しい。よくこんなもので食事ができる。これを使うと美味い筈のものも不味くなる」
 二年? 沙射は箸が使えるようになるまで五年は掛かった筈だった。勿論、子供は手指が動く訳ではないから同列には語れないが、何か聞くたびに圧倒されてしまう。
「二年でそれでしたらお上手ですよ。大陸でも辺境に行けば箸の無い文化の国もいくつかあったと聞き受けております。それより、お言葉が流暢でいらっしゃいますが、いつから勉強されていたのですか?」
 大陸の言葉としてもいくつかに大別されている。一〇〇〇年以上羅季が大陸を統一していたので、一番多いのは羅季語だ。公用語と言っても良いだろう。ル・アやリョウ・カ、ガリ・アが喋っているのも、訛りは強いけれど羅季語だった。戦で山を降りるために、前準備として一族全員で羅季語を勉強していたのだろう。
 統一したのだから自分の国の言葉を流布させれば良いのだ。征服する時に言葉がわからなくては困ることもあるだろうから、羅季語を勉強するならまだしも。征服しきった今に至っても、まだ息子に羅季語を教えるなどと、ガリ・ア王帝は余程親羅季なのだろうか。
 すでに『自分の国』という感覚も沙射には薄いけれど。他国人が自分の国の言葉を喋ってくれるのは正直に言うと嬉しい。麻美以外の人間と会話ができる。しかもこんな美人だ。普段笑うことなど滅多に無い沙射だけれど、今は始終ニコニコしていた。
 訛りが強い、とは言っても、ガリ・アやリョウ・カよりル・アのそれはかなりましだ。けれど、どうも『ら行』が弱い。文中に『ら行』が出てくると『あ行』に聞こえそうだ。ただ、ら行は全部舌を巻いた発音になるようなので完全に『あ行』と間違えることは少ない。それと、促音が少し変だ。『もっと』などが『もと』に近く発声されている。
 その舌を巻いた口調や抑揚の高さが、羅季の言葉からするとかなり野卑に聞こえる。羅季の言葉の調子は高低で整えるが、ル・アの喋り方は強弱がつき過ぎなのだ。ガリ・アもリョウ・カもそうだったから、キラ・シの言葉がそういう言葉なのだろう。
 強い発音をされると耳障りだし、弱い部分は聞き取れない。たまに単語の並びが前後するし、文脈の掴みにくい話し方がある。だが、他国語ならば仕方が無いと納得もできる。全体的には流暢だが、数字や時制が入ると、少しおかしいと感じるぐらいだ。
「山から下りたのは四歳の時だ。一〇年目だ。羅季人と喋ることも無かった。最初数年は」
「……………………十四歳でいらっしゃる?」
「そうだ。どうした」
「……いえ、わたくしより年長のかたかと……」
 真剣に沙射は驚いた。ル・アは上背も横幅も、すでに沙射より大きいのだ。横が大きいと言っても、恰幅が良い、という程ではない。ル・アの全体像はひょろっと長い印象があった。長い髪が嵩高く舞い上がってバランスがとれている。
 しかし見事な髪ですねえ、と。沙射はル・アの髪が風に舞うたびに目を奪われた。
「そうだ、それが聞きたかった。沙射皇子は何歳だ?」
「わたくしは当年とって一八になります」
「………………ジュウハチィッ!」
 しばらく沙射を眺めていたル・アが、慌てたように乱暴に立ち上がって叫ぶ。
 羅季城に出入りする商人は一年か半年ごとに変わっていた。商人が変わるたびに驚かれたので沙射は構えていて、自分が驚かずには済んだけれど、その大きな声に耳が痛くなる。この声は一種の武器ではないか。
 軽く眉を寄せた沙射を見ていながら、ル・アはそれどころではないらしい。沙射の頭の上から爪先まで何度も何度も不躾に往復して眺めている。睨み付けていると言ってもいい。長い指を添えた口元が何かぶつぶつ呟いていた。キラ・シ語なのか、声は聞こえたけれど沙射には意味がわからない。
「ジュウハチって一四の四つ先のジュウハチだよな?」
「……はい。そうですね」
 『先』というのは『年上』と同じで良いのですよね。と沙射は判断しておっとりと頷く。
「あなたが……俺より、四つ、先?」
「そうですね」
「信じられない……」
「嘘は申しておりませぬ」
 まだ呆然と立ち尽くし、ポカンと開いたままの口で沙射を見ているル・ア。何度もまばたきして、何度も沙射の全身に視線を走らせる。
「……そういえば、父上が初めて下山した時に産まれたと聞いていた。計算すればわかることだったな。大袈裟に驚いてすまない……」
「いえ、お気になさらずに」
 つまりは、今の今まで、沙射の年齢を考えることが一度も無かった、ということだ。護るのなんのと言っても、それぐらいの認識なのだろう。別段、沙射は何も感じなかった。
 呼び寄せてくれただけでもありがたい、それが真実だ。その上で、礼を欠いてはいけないから、と準備をしてくれていた様子もある。嘘でも、ありがたい。
 ありがたい。何をして貰っても、ありがたい。羅季に閉じ込められて殺されるよりは、なんでもありがたい。
 沙射の年齢は調べなかったル・アだけれど、先程の大臣の捕縛は、城の一大事の筈だった。それを、売名を含めていたとは言え、沙射のためにしてくれたのだ。それは、確実にありがたいことだった。ル・アがあの大臣と似た認識ならば、『羅季礼をキラ・シにするな』ということを教えてくれなかったかもしれない。沙射の命を大事にしてくれる、という点では、あの大臣よりもル・アの方が頼れることは確かだった。
 ぐしゃぐしゃっ、と両手で頭を掻きむしりながら、ル・アは椅子に掛ける。
「……なぜ年長ばかりなんだ…………」
 沙射の感慨など知らず、ル・アは皿などを向こうに押しやり、卓に突っ伏してしまった。ル・アの背中で髪がふわふわと舞い踊る。
 その髪が皿に落ちそうになって、沙射は思わず手を伸ばした。皿に髪がつく、のではなく、料理で髪が汚れる、と忌避感を覚えたのだ。
 スラリ、と冷たい感触が指先によぎる。
「ナニ?」
 髪を触られていることに気付いたル・アが、自分の肩に流れ落ちる髪の合間から沙射を見た。
「髪が……風に舞い上がって…………あっ……」
 ル・アが体を上げた。
 沙射の指に一房の髪を残して、その手を取る。
「細い手だな」
 苦笑するように、顎を引いて笑ったル・ア。
「綺麗な指だ。細くて白い……熊の牙よりも白いな」
 チュッ、と。沙射は親指にくちびるで触れられて驚いた。
 そんなふうに触れられたことなど未だかつて無い。麻美以外にここまで近く人に寄ったことも無いのだから当然だ。
 不思議と、嫌悪感は無かった。
 以前、ある商人に服を着せて貰った時、肌に触れられるのがとても嫌だったことを思い出す。だが、商人すべてにそれが嫌だった訳ではない。
「……熊の牙……というのは…………どのような色……なのですか……?」
「俺の肌ぐらいの色だ。白い。大陸では俺は黄色いが、キラ・シの中で目立つぐらいには白い。熊の牙はこんな色だ」
「そう……ですか……」
 それは象牙と似た色だろうか。同じ牙なのだからそういうものだろうか。
 元々聞きたくて聞いた訳ではなかった。何か、見つめられているのに間が持たなくて、話題を探したかっただけだ。
「なぜ、髪を?」
 沙射が困っているのを見かねたのだろうか、ル・アの方から話題を振ってくれた。すくい上げるように下から沙射を覗き込んでくる。どうしてわたくしが見上げられているのでしょう……と、沙射は不思議に思った。
 足が長い分、座ると予想以上にこじんまりとした印象はあったけれど、それでもル・アは、沙射より大きかったのに。
「風に……踊るので…………つい……」
「うん、それで? どう感じた?」
 大きな口元でうっすらと笑みを浮かべ、目を細めて沙射を見つめて来るル・ア。黒い瞳が優しげで、沙射はなぜか茫としている自分を知覚する。
「冷たくて……驚きました……」
「冷たい?」
「髪が、冷たくて……」
 沙射は、自分の手に残っているル・アの髪をさらさらと親指の腹で撫でる。すでにそれは沙射の掌の熱を吸収して暖かくなっているけれど。先程宙で捕まえた時は、岩壁に触れたかのように冷たく、しばらくしても掌にひんやりと涼感があったのだ。
 ル・アの右手が自分に伸びてくるのを沙射は見た。
 目的が自分の左肩辺りだと、わかる。
 ふわり、と左耳の辺りで髪が揺れた感触。
 ル・アから視線がはずなかった。
 視界の端にル・アの指が見える。
 黄色い指に自分の髪がくるくると絡んでいる。もしかしなくても、ル・アの肌より沙射の髪の方が色が薄い。
「すぐに体温になる」
 沙射の見つめている先で、ル・アのくちびるが動いた。
「陽色の髪が輝いて、溶けそうだ」
 清涼感のある声が、歌でも聞いているかのようだった。
 わたくしは目眩でも起こしてるのでしょうか?
 沙射は一度まばたきをした。
 ル・アの顔が迫ってきているように見える。
 先程はル・アの両脇に背景の緑が見えていたのに、今は、見えない。
 くちびるに、涼感。
 ひやり。
 ル・アの黒い瞳が目の前にある。自分の顔が映っていた。
「あなたの蒼い瞳に、俺が映っている」
 くちびるの上で囁かれた。先程くちびるにあった涼感が、ゆっくりと暖かくなっていく。
 灼く、なっていく。
「溶けそうだ……」
 ル・アの声。
 つらり、と。頬を冷たいものがよぎったのを沙射は知った。目の前にあったル・アの顔がぎょっ、とこわばって遠ざかる。
「……………二度としないから…………泣かないでくれ」
「泣いて……ますか?」
「泣いてます」
「……わたくしがですか?」
「あなたがです」
「そうですか……」
 ル・アの手がもう一度伸びてきて、沙射の頬を拭った。濡れた自分の指をル・アが舐める。
「泣き止んでくれよ………もう一度接吻したくなる……」
 ル・アの言葉に、沙射の涙がぴたっ、と止まった。
 ル・アはその切れ上がった目を見開き、一呼吸置いて大きな溜め息をついた。 長い髪をかき上げながら笑って見せる。ここは風がよく吹き通るのでそのたびに、結っていないル・アの黒髪は舞い上がり、ル・アが長い指で梳った。毎回、その動きが綺麗で沙射は微笑んでしまう。
 美しい人が目の前にいることの幸せを実感した。ル・アを見ているだけで心が踊る。麻美は大事だけれど、彼女を見てそういう気分には、一度もなったことが無かった。商人にも無い。似た歳だからだろうか? 年下だからだろうか? 大陸人ではないからだろうか? キラ・シだからだろうか? 護ってくれたからだろうか?
 綺麗だから。
 その答えが、沙射には一番しっくり来た。沙射が大好きだったキラ・シの女面。その面にそっくりのル・ア。心地良くない筈が無かった。こういうのを眼福と言うのだろうな、と納得する。
「ようやく笑ってくれたな」
 ル・アも笑う。穏やかな笑みだった。
 キラ・シの大陸覇道を伝える語り部は『女のように結った髪の男達』と描写していた。確かに羅季城の軍人もリョウ・カも、髭面の恰幅の良い壮年の男なのに髪は結い上げて、残りを背に垂らしている。いつかル・アも結うことがあるのだろう、と沙射はその光景を眺めていた。この髪を結い上げると見事でしょうね、と自分の心に囁く。美人画の結った髪をル・アの顔に想像して、とても楽しくなった。簪は銀より金が似合う。青い花より紅い花だろう。花よりは鳥の意匠の方が良さそうだ。絹糸のような黒髪が風に舞い上がる姿はそれだけで劇的に麗しく、見ていて楽しい。
 指先に、ル・アの髪の感触が残っていて、沙射は胸にその掌を抱き寄せた。また、ル・アが一つ、溜め息をついて右肩を竦めて見せる。
「年下ならどうとでも稚児にしたかったのに。年長では無理だな。残念」
 キラ・シの民にしては白い顔で天を仰ぐ。陽を受けて、その頬は健康的に艶光った。自分の病的な白い肌とは雲泥の差だ、と沙射は思う。
「チゴ…ですか? それはどういう関係のものですか?」
 椅子に反り返って腕を組んでしまったル・アに、沙射が聞き返す。空から沙射に視線を変えてしばらく、ル・アは合点が言ったように膝を叩いた。
「もしかして……万が一にも間違いがあれば謝罪するが………………『子作り』をしたことが無いのか?」
 真正面から聞かれて、沙射は何度かまばたきをした。それを肯定だと受け取ったらしく、ル・アは大きな溜め息をつく。
「だから、先程出て行かなかったのだな。こちらの男は何歳になれば子供を作る? 寿命は? まさか二〇〇まで生きるからそんなにのんびりしてるのか? キラ・シは四〇年も生きれば死ぬぞ」
「……あ……いえ。わたくしどもの寿命もそれより少し長いぐらいです。二〇〇年も生きるのは仙人だけです」
「ならばなぜ、子を作らない? しかも皇帝の長男ということは族長だろう? キラ・シは一二歳で子供がいるぞ」
「それはまた、早いですね……」
 子作りも何も、側には麻美しかいなかった。老婆が少年に性教育などする筈が無い。その系のことを沙射はまったく知らなかった。麻美が『男のかたですのに、弓の訓練もできないなんて……』などとよく言っていたので、今の境遇は男の自分にとってあまり良い待遇ではないのだ、ということはわかっていた。だがその『良い境遇』を知らないので、何も不満は無かったのだ。
 曜嶺皇帝の血筋は代々弓の名手だそうだ。沙射の名前も弓にちなんだものだった。物心ついてから幽閉されたのであれば、今のル・アの言葉を嫌味や悪意だと受け取ったかもしれない。しかしながら、それが当然の世界で育った沙射は、何も憤りを覚えなかった。
「それは……また、お早いことで……もしかしてル・ア王子もお子がいらっしゃる?」
「いるぞ。多分三〇人ぐらい……もっといるかな。五〇人ぐらいいるかな……」
「………………御冗談を」
「冗談ではない。次にさっきの女が孕むから、また一人増える。今孕んでいるのだけで一〇人以上いた筈だ。他国にもいるし……一〇〇人以上いるかもしれん」
 口にするたびに数が増えている。沙射は、冗談と見なすべきかと悩んだ。ぱちくり、とまばたきをして言葉を失う。からかわれているのだろうか。だが、ル・アの表情は真剣そのものだ。
「この城に来てから、こちらの習慣を調べたから、まだよくわかってはいないが。色々違う部分があるんだ。羅季語とキラ・シ語で対訳が無いものがある。一番重要だと思えるのが『結婚』という言葉だ」
「……はい……」
 ナニを言われているのか、沙射にはわからなかった。
「『結婚』とは、男女が二世を誓って共に暮らすことを約束すること、と意味を取ったが、間違っているか?」
「……あっていると、思います」
「キラ・シ語には『結婚』に類する言葉が無い。ウィギにも無かったから、珍しいことではないのだろうが、困っている」
「………………はい……」
 沙射はぱちくり、とまばたきをする。
「ウィギとは、どこのことでしょうか?」
「ラスタートの部族だ」
「……はい」
 ラスタートが部族で別れているなどと、沙射が読んだ文献には載っていなかった。沙射はそれを聞きたかったけれど、ル・アはそんな場合ではなさそうだ。
「妃とか王妃とか、妻とか妾とか……なんとなくはわかるんだが、意味がよくわからない」
「どのように……でしょうか?」
「どのようにもこのようにも、そういう言葉がキラ・シには無いんだ。だが、やたらこちらに来てそれを聞いた。俺や兄王子達の『妃』は誰か、とか。父上に『王妃』はいないのか、とか。『側室』はどれがいいとか。自分の娘をお傍に、とか。どういう意味だ? 全員女だというのはわかるが、ナニがどう違う? それと、父上が『早く太子を立てろ』と言われているが、なんだ?」
 パチパチ。沙射は、必死で訴えてくるル・アの目を真正面から見つめて、何度もまばたきをする。
 沙射もそういう関係の女性がいる訳ではない。実感はしていないけれど、それらの言葉はわかる。わかるけれど、あまりに質問が単純過ぎて、ル・アの『わからない』部分がわからないのだ。
「一番多いのが『女官になど手をつけず、わたくしの娘を』と言われることだ。どういう意味だ?」
 えーーーーー……という音が沙射の頭の中を行き過ぎた。
 沙射は当然、見たことは無いが、各種随筆や散文ではそういう描写を見受けたことがある。主に、臣下の者が自分の娘を主の側室に出すことだ。……というのが、沙射が本から学んだ知識だった。
「女官に手をつけて……らっしゃるのでございますか?」
「それはどういう意味だ?」
「………………女官を閨に呼んでらっしゃるのですか?」
「閨ってなんだ?」
「…………寝台でございます」
「寝台と閨とどう違う」
 えっと……、と沙射は言葉に詰まった。
「……女官と同衾してらっしゃるのでございましょう?」
「同衾ってなんだ?」
「……寝台でございます」
「さっきの閨も寝台だろう? なぜ寝台に三つも四つも呼び方がある」
 んーーー、と沙射は少し目を瞑った。他にどんな言い方があっただろう……と、読んだ本を端から頭に思い浮かべる。
「寝台は寝台なのでございますが、女性と遊ぶ場合に、その寝台を閨と呼びまする。同衾はどなたかと共に寝台を使うこと、……の筈です。転じて、閨と同じ使い方を致しまする」
「女と遊ぶ? 何をする?」
 ここで沙射が少しでももの慣れていれば、『あなたが先程してたことですっ!』と言えただろう。けれど、現時点では沙射もそれが何か、気付いてはいなかった。
 何をする、といわれて、沙射に答えられる筈が無い。
「え……と、女性と、その…子供を作ろうとする行為です」
「子作りかっ?」
「それですっ!」
 だが、ル・アはそこで納得しなかった。
「子作りを遊びでするって、なんだ? どういうことだ?」
 えーーーーーーーーーーーー……。沙射の頭の中を、さっきよりもたくさんの『え』が走り回る。
 これは別の突破口を探さないと駄目なのではないのでしょうか。大体、わたくしにもよくわかっている事柄ではないのですし。でも、どこから突破しましょうか。このまま急に話題を変えることなんてできませんし……沙射はうんうん唸った。ふと、先程のル・アの言葉を思い出す。
「王子っ、先程『結婚』はなんとなく理解してらっしゃったのですよね? 妻や王妃がわからなくて、『結婚』がわかったのはどういうことですか? 似たような言葉がキラ・シにもあるのではないのですか?」
 無い筈は無いのだ。人間にとって重要な言葉なのだから。
「……ああ、似た言葉ならある。『二世を誓う』という所に引っ掛かったんだが。キラ・シでは『三世を誓う』と言うんだ。多分、同じ意味だと気付いたから『結婚』はなんとなくわかった」
「羅季語の結婚とキラ・シのそれと何が違ったのでございますか?」
 沙射も身を乗り出して聞き出すことに必死になる。城で本を読んでいても、わからないことがあると、その関連の文献を取り寄せて、理解できるまで納得しないと気が済まない。
「キラ・シには『終』という言葉がある。三世を誓った者同士を族長に認めて貰うことだ。どちらかが死ねば、その者の所有物の権利がもう一人に移る。終を宣言すると、大体はがんばって村はずれに家を建てるらしい」
「はい、結婚とは羅季でもそのようなものです。理解してらっしゃるではありませんか。何がおわかりにならなかったのですか?」
「終は男同士ですることだ」
 沙射の頭の中を、何かが錐揉み状態で飛んで行った。
 思わず、沙射は自分で額に手を当てて俯く。
 えっと……こちらでは結婚は男女がすることで、それは子供を作って子孫を増やすための準備で……えっとえっと……
「男同士で終ということは、男女で似たような言葉がある筈ですよ?」
「無い」
「無い筈ありませんよ。男女がいなくて子供はできません。王子の母上は王帝とどういう関係であられたのでございますか? それが結婚、ということでございますよ。ですから、順番で申し上げますと、ガリ・ア王帝の第一王子をお産み参らせた女性が王妃であらせられる筈でございますよ? そのかたはどちらに?」
「死んだと聞いた」
「……それは、知らずに不調法を申し上げました。申し訳ございません」
「それはいいんだが、第一王子を産んだ女が王妃? ならば妻は? 妃は?」
 沙射の謝罪をル・アがまともに受け取っているようには、沙射は見えなかった。だが、矢継ぎ早に問うてくる、その速さにこそ惑う。
「妻というのは、結婚した女性を伴侶の男性から見た時にいう言葉です。地位の名称でございますね。それが王の伴侶となりますと妃。第一王子をお産み参らせたか、最初にお輿入れなさった女性が王妃と呼ばれるのが通例でございます」
「輿入れってなんだ?」
「結婚のことでございます。女性側から、『結婚する』ことを指します。語源と致しましては、御輿に乗りまして、伴侶である男性の家に来たことからと聞き受けております」
 ル・アが何か腑に落ちない顔をした。だが、沙射の言葉を遮りはしない。
「男の伴侶の元に女が来る? 女が来てどうする? 次の男の所へも輿に乗っていくのか?」
「次……と申されますと、伴侶の男性が亡くなった時でございましょうか? そのようなこともあるとは存じますが、追い出されない限り、大体は最初に嫁した家で生涯を終えると思われます」
 またル・アの眉がつり上がった。
「待て待て待て。何か、根本がずれてる気がする。言ってることが理解できない。語彙が足りないのかもしれない」
 ル・アも頭を抱えて俯いた。空いた左手が、指さし確認をするかのように動き、くちびるがぶつぶつと動いている。
「妻、が男の伴侶であり、女のことなら、『一夫多妻』というのはどういうことだ?」
 ようやく顔を上げたル・アが言ったのは、またもやその関係のことだった。
「一人の男性に対して妻がたくさん輿入れしていることです。辺境の部族や、王室、皇室では普通のことです。妻といいましても、王室の場合は、妃と側女になる場合や、一般の男性であっても第一婦人第二婦人、と同列に並ぶ場合と、妻は一人であとは妾、として列を変えている場合もございます」
「またわからなくなった」
「もしかしてキラ・シには、力ある男性がたくさんの女性を伴侶とする制度が無いのでございますか?」
「無い」
「それはまた……清廉なことでございますね。一夫一婦でございますね」
 言ってしまってから、『一夫一婦』があれば『結婚』は理解できるのではないか? と沙射は気付いた。
「あー…………こちらの言葉で言うとすれば、『男がたくさんで女が一人』だ」
「………………『一妻多夫』……でございますか? それは、珍しいですね」
 でも、それでは種族が増えにくいのではないか? と沙射は思う。
「イッサイタフ? というのか? とにかく『結婚』は無い」
「『終』はあるのでございましょう? その女性と男性の間に」
「無い」
 はっきりとル・アは言い切った。
「終は男同士だけだ。女とはしない」
 沙射もル・アと一緒にまた混乱した。ぐしゃぐしゃ、とル・アが自分の髪をかき回す。
「そんなこと考えたことも無い、と誰も答えてくれなかったが、この大陸で、男と女の比率はどれぐらいだ?」
 突然、ル・アは聞いてきた。
「この王宮には女が山ほどいる。こんなに女を集めたら、巷に女がいないだろう? それでも、毎月新しい女が来る。女の数が元から違う筈だ。どれだけいるんだ? 国の一割も女がいるのか? 羨ましい限りだが」
「大陸においての男女の比率は半々、ないしは、女性の方が多いです」
「は?」
 ル・アがポカン、と口を開けた。何が疑問なのだろう、と沙射はル・アを見上げた。男は戦に取られて死んでしまう。残る女の方が多くなるのは当然だった。
「ただ、この煌都……ではなくて王都や、他の大きな都では、出稼ぎに来る男性が多いので、男女比率は多少変わって四対一ぐらいになるものと思われます」
「でも、ほとんどの町は半々なんだな? 半々って……? 五割のことじゃないのか?」
「そうです」
「男が十人いたら女も十人いる、ということだぞ?」
「そういうことになりますね」
「男一人に女一人をあてがえるじゃないかっ!」
「結婚、とはそういうことでございます」
 ル・アは目を大きくして深く椅子に座り込んだ。
「ああ………なにかしら、今、唐突にすべてが理解できた」
「それはようございました。お役に立てて光栄です」
 まだ茫然としているル・アを見て、沙射も次の言葉を待つ。
 ややあって、ル・アがあちらこちらに視線を飛ばしながら右手を開いて天に向けた。思わず沙射はその先を見上げる。そこには黄砂の飛ぶ、薄黄色い空があるばかりだ。
「キラ・シには女がいない」
「ああ……はい。そのようでございますね」
「物心ついてから大陸に移るまで、女を見たことが無かった。子作りしたのはここ二年。王都に来てからだ」
 それは大変でしたね。と沙射は言いかけた。沙射とて、この王都に来るまで麻美以外の女性を見たことは無いし、未だにその経験も無い。女性に関することではル・アより下だ。
「滅びゆく部族……か……」
 低い、低い声でル・アが呟く。
 その声に、沙射は全身が震え上がった。何が怖いのかわからない。ただ、得体の知れない寒さを覚えた。
「キラ・シでは、二〇人に一人も女が産まれない」
 卓に肘をついた手で額を支え、俯いたままル・アは告げる。
「キラ・シの女、というのはほとんどいない」
「……では、結婚はどうされていらっしゃるのですか? 男同士では、子は生まれませんよね?」
「ああ、産まれない。女はよその部族から攫って来る」
「よその部族には女性がたくさんいるのですね?」
「いや……いない。キラ・シよりはいるが、みんないない」
「女性を攫ったら、喧嘩になりませんか? 犯罪ですよね?」
「だから、ずっと戦をしてる」
「ずっと……? ですか?」
「ずっとだ。口伝で聞く限り、数百年、ずっと戦をしてる。一人の女を攫うと、戦士が二〇人以上死ぬ。子は一年に一人しか産まれないのに……もう、どこの部族も戦う男達すらいない。俺が産まれてからでも、二つの部族が滅びた。キラ・ガンとキラ・シュだ。共にキラを担いだ、同じ祖先の部族だった。キラ・シが一番強くなった。すべての女はキラ・シの物になった。あと二〇〇年ぐらいは大丈夫だろう」
 滅びゆく部族、と先程ル・アが呟いた言葉が沙射の耳に残っていた。
 確かに、それでは部族は滅びてしまう。
 だが、それより先に、『部族』と言うほどの人数で、数百年も生き延びてきたことが、沙射には驚きだった。たんに『国』を『部族』と言っているだけで、巨大な国家だったのだろうか。
「だから、父上は山を降りた。女を求めて。部族の男達に女を与えることを約束して。山を離れるのを最期まで嫌がった長老を置き去りにして山を下りた。
 どこにも女どころか人なんていない、と長老は言っていた。山を降りても死ぬだけだ、と。お前は部族の全員を殺す気かっ! と、父上は罵られたらしい。
 だが、父上は間違っていなかった」
 ル・アはようやく顔を上げ、沙射を見た。そして、膝の上で広げた自分の掌を見る。
「女はいた」
 その長い指を握り込んで、もう一度沙射を見て、ル・アは言った。
「女は居たんだ。こんなにたくさん」
 黒い瞳に見つめられて、沙射は思わず顔を背けた。
 嫌な瞳。先程まであんなに綺麗だったル・アの瞳に、なぜか嫌悪を感じた。
「ああ、そうだ。一人の男が一人の女を生涯あてがわれるから『結婚』なんだな? 王となれば、何人もの女をずっと連れていることができるということだな?」
「そう……です」
 何がこんなに不快なのだろう、と沙射は自問自答した。
 すでにル・アの声は先程と同じ、明るくすがすがしい音階に戻っているのに、その言葉を聞いているのが辛いと感じている。それがル・ア個人への嫌悪でないことが、沙射はなんとなくわかっていた。
 この発言は、ル・アの心から出た物ではない。部族の意志なのだ。女を、子を産む道具としか考えていない、不愉快さ。
 沙射の回りには麻美しかいなかった。女の麻美しかいなかった。結婚もせず、ただ沙射に仕えてくれた彼女。ル・アの言葉で、彼女を穢されたような気がしたのだ。子を産まない女は存在理由が無い、と。
「女は毎年子供を産むが、以前だとその親となれる男の数は多くはなかった。だが、大陸には女が多い。今だと、一人の男に一人以上の女があてがわれてる。女と見れば孕ます癖がついてるから、のべつ幕なしに子ができる。父上もすでに一〇〇〇人からお子がいらっしゃる。急遽作った養育施設は満杯だ。大陸を統一し出してからの最初の子がすでに元服して戦士が増えた。戦士全員がそうだから、鼠算のように増えている。養育施設は切羽詰まった問題なんだ。
 族長の血筋なら、三人子が居れば多い方だった。今は幸運だな。女の数だけ子が増える。まぁ、その九割以上が男だ。元服と同時に女をあてがわれるから、すでに、大陸に来て生まれた子供も去年子を産んでる。今年産まれてくる子をいれると、降りてきた時の人数の……概算でも……一〇〇倍……になる」
 沙射は少し気が遠くなった。
 桁が違い過ぎる。一八年で人口が百倍? あまりに突拍子も無い話をされて、ようやく先程の不快な心証が薄れた。
「一人のキラ・シが一年で三人子供を産ませたとして、その数字だから、四人か五人産ませた男がいれば、もっと多い。父上のように千人産ませた男がいないとも限らない」
 女性に飢えていたからと言って、千人も子を産ますことが凄い。沙射はもう、何も言えなかった。
「いや、千人というのは概算だろう。すでに父上も数えてはいらっしゃらないようだ。多分、毎日違う女を孕ませて三年経ったから千人。あとは数えてない、という所だろう。今でも後宮に二千人は女がいる。来年も千人ぐらい子供が生まれる。一日に二人孕ませれば年間七〇〇人だ。父上は今も元気でいらっしゃるから、まだまだ増えている」
 流暢に話しているとは言え、ル・アにすれば外国語を使っていることになるので、ぶっきらぼうな短い文章で喋っている。それがまるで笑い話をしているかのように聞こえた。丁寧語と敬語と謙譲語も変に混在している。まじめに言っているのだろうか、と沙射は問い掛けたいぐらいだ。
「よく食料などが足りますね」
「ああ……まぁ…………その問題もある。いくつか辺境の村や町が干上がったというのは聞いている」
 ル・アが神妙な顔をした。
「俺が来てからも一つあった。村人が直訴しに来ていた。税を軽くしてくれ、と嘆願していた」
「どうなさったのでございますか?」
「多分……父上は無視なされただろう」
「村はどうなりました?」
「翌年には人がいなくなったらしい」
「税の免除などはできなかったのでございますか?」
「免除をした噂が広まれば、全国から嘆願に来る。全国の村の税を免除すれば、この都はたちまち餓死者が出る。
 二〇年足らずで、キラ・シだけでも二万人以上増えている。戦士として役に立たない子供達を反乱の起きやすい地方には送れないこの王都に二万人増えてるんだぞ。当然、地方在任のキラ・シも子を産ませている。どこでも子が増えている。剣を持てるようになれば地方に送っているが、子供達を狙う盗賊も多いしな。当然、大陸中でキラ・シではない子供も増えている。だからと言って、地方の村の開墾率が上がる訳ではないからな。キラ・シが耕せばまた別なのだろうが、キラ・シは農業をまったく知らない。戦士達はそれを理解すらしていないだろう。山には獣も木の実も魚も十分あった。人がわざわざ育てる必要など無い。土を耕せと言ったら、みんな死ぬ程嫌がるだろうな。
 山では一部族が生き残るのは大変だった。食料は足りていたが、女がいなかった。大陸に女が多いとは言っても、俺達キラ・シが突然割って入ったのだから、どこかにゆがみは出る。
 リョウ・カから聞いているだけでも一二の王族を滅ぼしたと言っていた。綺麗ごとでは済まないことは誰しも理解している。あなたの皇家も、父上がほとんど手に掛けたと聞いた」
 ル・アがまっすぐに沙射を見上げて来る。
 泣きそうな瞳をしてらっしゃる。そう、沙射は感じた。
 綺麗な瞳だと、思う。ここで、沙射に罵倒されるのを覚悟している瞳だ。言い出さなければ、沙射はそんなこと、口にする確率は低かっただろう。わざわざ自分から水を向けてきたのだ。ル・アの心にわだかまりがあったらしい。
 戦で人が死ぬのなど当然なのに、征服者の側にいるル・アの方が、そのことを慮ってくれている。
 羅季人は、沙射をキラ・シに殺させて、キラ・シを打倒しようと計画していたというのに。誰が、真実の味方なのだろう。沙射にはさっぱりわからなかった。
「憎いか?」
 漆黒の瞳で問われて、沙射は首を横に振る。
「わたくしを、助けて下さったのもガリ・ア王帝でございますよ。あの時、覇魔流が城に攻め寄せていました。王帝がいらっしゃらなければ、わたくしは一八年前のあの日、一族もろとも消えはてていたことでしょう。その上で、今日までずっと、面倒を見て下さいました。一度も、飢えたり嘆いたり、せずに生きて来られました。感謝しこそすれ、恨む筋合いなどございませぬよ」
 沙射の本心だった。ガリ・アが来なくても、曜嶺皇家は滅びたのだ。ガリ・アが来るのがもう少し遅ければ、皇家は全員自害していただろう。
 沙射の言葉に、ル・アが安堵の息をついた。
「なぜそのようなことをお聞きになります? どなたかから何か問われましたか?」
「いや、俺は、父上を殺されれば仇を討たずにはおれぬから」
「よろしい心ばえでございますこと。王帝もお慶びでございましょう」
 にっこり笑った沙射に、ル・アが頬を染めた。
「本当に、美しいな」
 突然、しみじみと言われて沙射は言葉に困る。
「絵師を探させよう。その髪一筋まで写しとれる、腕の良い絵師を。『絵』とは凄いな。まるで本物のようだ。布から出て動き出さないかと、何度見ても焦る」
「わたくしを絵に残してどうなさるおつもりでございますか。御自身の成長をお写し下さいませ」
「どれだけ美しい子供が生まれるだろうな」
「王子のお子でも、美しい赤様が産まれることと存じあげますよ」
「子供の顔は女に似てる気がする。肌は黄色いが、目が大体こっちの顔だ」
 沙射に見とれたまま、ル・アは現実的な言葉を紡ぐ。
「孕み月の女がいると、つい手を出してしまう。さっきもそうだった……」
 困ったな、という風情で前髪をかき上げるル・アに、沙射の方が困ったな、と苦笑した。ようやくル・アの視線がはずれて息をつく。
 ガリ・アに見られても瞳を伏せることはできたけれど、ル・アに見つめられると視線を逸らせない。釘付けになる、という言葉そのまま、動けなくなるのだ。
「孕み月と申されますとどのようなものなのですか?」
 ル・アが振ってくれた話題に沙射は乗った。
 ル・アから視線をはずし続けるために、皿に箸を伸ばす。すでに冷めている小龍包は不味かった。ル・アは気にせず、蓮の葉に並べられたそれらをハクハクと口に運ぶ。空になると手を上げて次の皿を持って来させた。冷めたからと言って、料理を捨てる性格ではないらしい。喋りながらル・アは良く食べた。それでも、必ず皿が空いてから次の皿を持ってこさせている。麻美は、沙射が食べるのが遅くて冷えてしまった皿を、頻々と温かいものと替えてくれていた。やはり、贅沢をさせて貰っていたのだ。
「子作りはいつしても子供ができるものではない。女にはその周期があって、今すれば孕む、という時は独特の匂いがしている。父上もわかるらしいが、リョウ・カや兄上達はわからないと言ってるから、勘なんだろうがな
 だから、俺や父上は、一度すればその女は孕む。大陸には女が溢れているとは言っても、キラ・シの血に流れる性質だからな。その匂いを嗅ぐと止まれなくなる。
 さっきの女官も、茶を持ってきた時にその匂いがしたから寝室に引っ張り込んでしまった。
 だが、約束があれば自身を律することはするぞっ! あなたと会うことは本当に知らなかったんだっ!」
 最後の言葉は沙射を見て、声を大にして言われた。突然の大声に、沙射は思わず椅子から滑り落ちる。
「どうした。ひっくり返る病でも持ってるのか?」
 ル・アも慌てて立ち上がって沙射を起こしてくれた。
「いえ……王子が突然大声を出されたので驚いただけです」
「大声? いつ?」
「今ですよ。つい今し方」
「大声など出してないぞ?」
「ぁあ……はい。羅季城の軍人の方もそうでしたから、キラ・シの方々……というより、軍人の方々には大したことではないのだと思いますよ。わたくしも慣れるよう努力します」
「いや、その都度注意してくれ」
 ル・アに頭を下げられた。
「だから山出し猿と言われるんだな。声が大きいなんて考えても見なかった。今度から気をつけるが、うっかり大声を出したら注意してくれ。もしかして、あなたは凄く喋り方が遅い、それが普通か?」
「私も遅いとは思いますが、王子はとても早口でいらっしゃいますすし、普通のお声がすでに大きいですよ。興奮して声高くなられるとたまに耳鳴りがします」
 沙射に言われて、ル・アは天を仰いで大きな溜め息をついた。
「キラ・シの方はみなお声が大きいですよね」
「隣の山にいる者と話ができないと意味が無いからな……声が小さくては生きて行けない」
「隣の山?」
「キラ・シの山は本山の周りに五つある。隣山に行った者達と会話できなければ、困る」
 沙射が知っている山は西鹿毛山脈と、この王都に初めて来た時に見た奉山だ。王都は奉山の麓にある。王都の大きさは、奉山のすそ野より遥かに狭い。
 羅季に皇家が移ったあと、この煌都を制圧した王がいた。その時、奉山が噴火し、その王一族は三日で滅びた。それからは、車李が管理していたが、誰一人煌都に住まいする為政者はいなかったのだ。ふさわしくないものが居すわれば、奉山が噴火する。だからキラ・シも滅びるだろうと囁かれていたが、奉山は煙すら上げない。誰しも、キラ・シの支配を認めざるを得なかった遠因だ。
 巨大な奉山。この山一つとしても、キラ・シの領地は莫大ではないか。
「俺は子供で、特に声が高かったから、良く『あそこに誰々がいるから、こうこう言ってくれ』と言わされた」
「声が高い? それがどう関係するのですか?」
「低い声より高い声の方が遠くまで聞こえる。子供の声の方が通りが良い。だから……今は無理だな」
 すでにル・アは声変わりをしているので、高い声と言われても沙射はぴんと来なかった。沙射自身、自分でわかるほど声変わりをしていない。だから、男子の声が一定時期に格段に変わるということを実感していないのだ。
 沙射も元がおっとりした性格なので、標準よりは遅い喋り方だが、麻美がそうなので沙射にはそれが標準だった。商人は少し早いけれど、ル・アほど早くはない。否、一人か二人はル・アぐらいに早口の商人がいた。急かされているようで選ぶ気力が無くなり、何も注文せずに帰したら次は別の商人が来た。
「もしかして、商人が怯えるのも声のせいか?」
 ル・アは箸を止めて聞いて来る。沙射も箸を置いて答えた。
「……その様子を拝見した訳ではありませんので確たることは申し上げられませんが、多分、それも理由の一つかと。お声自体は、とても響きの良い、爽やかなお声だと思われます」
「あなたの好きな声か?」
「はい」
 さりげなく聞かれて、本心で返してしまった。元々、沙射は人と接して育ってはいない。世事を言われることも、言うことも無かった。商人は沙射を下にも置かない扱いをしたけれど、所詮は平民なので沙射達が話す言葉でもない。
 目上の人間には、麻美が自分に話すような言葉を使っているだけだ。だからこそ、他人を気づかう術は持っていない。建前と本音を分ける心算を教えてくれる者はいなかったし、必要も無かった。
 沙射の口から出る言葉はすべて彼の真実なのだ。
 自分の言葉に、ル・アがにっこり笑ったのを見て沙射は少し照れる。鋭い視線が、笑うと溶ける。『綺麗』なだけの顔になるのだ。
 綺麗な目ですねぇ……と、沙射はル・アに見とれ、ずっとル・アと視線が合い続けているのでなんとなく目を逸らす。
「その目がいいな」
 伏せた顔を覗き込まれて、沙射は顔を上げた。目の前にル・アの黒い瞳がある。
「先程も驚いたが、その大きな瞳。凄いな。顔が写るぞ。『二つ空の泉』みたいだ。美しいな。髪もふわふわくるくるしていて凄く綺麗だ。キラ・シには黒髪黒目しかいない。大陸の人間もたくさん見たが、あなたのような美しい人はそういなかった」
 いつのまにか、ル・アが椅子を寄せていた。息が掛かる距離で顔を覗き込まれる。羅季城でも軍人から匂っていた何かの匂いがした。髪が舞い上がって皿の上に踊るのが気になって仕方が無い。せっかくの綺麗な髪が汚れてしまう。風が無いと、その黒髪はストン、と滝のようにまっすぐに落ちる。その髪も、何か香りがした。
「羅季城ではキラ・シの軍人の方から凄く不気味がられましたよ」
 どうにか話題を探して、沙射は口を開く。ル・アの視線が自分の顔に張り付いているのがいたたまれない。羅季城では、側に麻美しかいなかった。沙射が喋らなければ彼女が喋っていたり、静かな時間だったりする。こうして、側に人がいて注目を浴びている、という状況があまり無くて困った。黙っていることが辛い時間があるなどと、初めて知る。
「不気味? あなたが? どこが?」
 素直に聞き返されて、逆に沙射はむかついた。
「そういう……単語で問い返しをしないで下さい。体裁が悪いですよ。しかるべく文章にして下さい。ル・ア王子」
「それ違う。…………と、俺も正すが、あなたも正してくれ。俺に対して『ル・ア王子』と言うのは間違いだ」
「それは……失礼を。何度かそうお呼びしたような気がします……申し訳ありませんでした。どうお呼びすればよろしいので?」
「ル・アでいい」
「恐れ入りますが、それは……御勘弁を」
 沙射が即座に断ったのに、ル・アは軽くくちびるを尖らせる。声には出ていないけれどエー、と不満そうな口の形になった。
「……元々王子などと呼ばれ出したのはここ数年だからな。俺も面倒なんだ。ただ、『王子』をつけるなら『ル王子』が正しい。ル・アと言う名前には何もつけないんだ」
 そういえば先程、怪我をしたリョウ・カがそう発音していたことを沙射は思い出す。
「それはガリ・ア王帝ではなく、ガリ王帝が正しい、とそういうことですか?」
「そうだ。なぜとか聞き返してくるな。昔からそうなんだ。父上は面倒臭いのかいちいち訂正していらっしゃらないようだが、俺はいやだ。不愉快だ」
 強い口調で言われて、沙射は腹が冷たくなるような寒さを覚えて身震いした。
 機嫌良くしていると美女面そのままだが、綺麗過ぎるために、少し眉を寄せただけで冷徹な雰囲気がよぎる顔なのだ。
「そ……それは本当に、物知らずで申し訳ありません。
 それでは先程リョウ・カ殿が王子のことをルビアとお呼びになってらしたのは? もしかしなくても、リョウ・カ殿ではなく、リョウ殿が正しいのでしょうか?」
「そうだな。殿をつけるのならばリョウ殿だな。
 ビアは毎年する、子供の闘技会の優勝者につく名前だ。去年も勝ったから、ル・ビアだ。こちらで言うと『ルの強い戦士』という所か。父上もお小さい頃はガリ・ビアと呼ばれていたらしい。部族間では王子なんて呼ばない。元々キラ・シに『王子』なんていないからな。『王子』なんて『単語』がまず無い。
 それと先程『不愉快だ』と言ったが、それはとても強い感情の言葉だろう? あなたが一瞬で緊張した。もう少し不愉快さ加減の柔らかい言葉は無いか? そこまで感じていなかったが、思いつかなかったんだ。他に言葉を知らない。すまなかった」
「あ……いえ、謝って頂くようなことではありません。間違えたのはわたくしでございますから。不愉快さ加減の柔らかい言葉…………と仰いますと…………気分が悪い、とか、そうですね。単語ではありませんが『尻の据わりが悪い』などと言うことも有るようです」
「シリノスワリガワルイ? シリってこの尻か?」
 ル・アが、自分が座っている椅子の座面を指さす。沙射は頷いた。
「こう……言われてもぞもぞするような不安定な状態のようですね。不愉快だ、のように、相手に対して謝辞を求めるような言葉ではないと思われます」
「それだ! あー、すっきりした。それじゃあ、その時にいう別の言い方は? 今喋った中で間違いはあったか?」
「…………先程仰っていた、『タガが切れる』というのも普通は使いません。タガははずれる物で、切れるものではないです。似たような言い回しでしたら、堪忍袋の緒が切れる、とか……」
 それからあとはル・アから、立て板に水を流すかのように質問をされ続けた。よくも日々の小さな疑問をここまで覚えている物だ、と沙射は驚愕する。だからこそ、たかが数年でここまで羅季の何もかもを吸収したのだろう。父王帝が彼をかわいがっているのが目に見えるようだった。
 ル・アは何も制限されずに生きてきたのだ。知りたいことを知り、見たいものを見、食べたい物を食べ、行きたい所へ行き……真っ向から否定されたことの無い素直さが伺える。
 沙射は心のどこかでチクリ、と何かが痛んだ。だが、それが何かはわからない。ただ、ル・アの質問に答えるのが精一杯だ。
 無秩序に生活の疑問から言葉の疑問、服飾の疑問、建築様式の疑問へと飛んで行く。
 沙射は羅季の城で幽閉状態だったけれど、本だけは腐るほど与えられていた。もしかしてそれは、ル・アに教えるためだったのではないか、と沙射の頭の隅によぎる。沙射こそが頭をフル回転させてル・アに回答を与え続けた。
 すぐに早口で声が大きくなるル・アに何度も何度も声を正して下さいというのも疲れたのでそのまま聞いていて、たとえではなく、本当に耳が痛くなって来る。頭痛が徐々に大きくなってきた。
 羅季の城の軍人は騒々しかったとは言え、沙射の周りでは喋らなかった。剣や鎧がぶつかる金属音や靴音はしていたけれど、それだけだ。大きな声で怒鳴り合いをしていたりするのも廊下の向こうだったので、沙射はあまり驚くことも無く生きてきた。
 実をいうと、この勢いのあるル・アの側にいるだけでかなり怖い。綺麗だと感じるから、観ていることは楽しいけれど、こちらに向かって声を張り上げられる、手を振り回される。最初はましだったけれど、慣れたからか、その動きが大きくなってきていた。それがいちいち癇に障る。その指先に視線が行ってしまう。ル・アの手が卓にぶつかって皿を落としたりなども何度かあった。そのたびに沙射はびくっ、と飛び上がる。
 息が苦しいというか、胸が痛いというか……何か苦しいですよ……
 元々、沙射は喋る方ではない。たくさん会話をすることに慣れていなかった。ル・アの迫力に、精神的に圧されて体調不良を引き起こしてさえいたのだ。無意識に胸を押さえて体を引いてしまう。だが、数年分の疑問を今解消するのだ、とばかりにル・アの質問は止まらない。
 それは、夕食前にリョウ・カが呼びに来るまで続いた。あと一刻これが続けば、沙射はその場に倒れただろう。
「ああ、鍛練の時間か。もうそんな時間かっ。沙射皇子はいつまでこちらにいる予定だ?」
 自分からル・アの視線が逸れたことに、沙射はあからさまに安堵した。大きく溜め息をついてしまう。それを目の端に見たのだろう、リョウ・カが口元だけでおかしげに笑った。
「沙射皇子はル・ビアの隣に部屋を用意した。食事も一緒にするといい」
「そうなのかっ! では、また食事の席でっ!」
 ル・アは元気よく大声でキラ・シ礼をして、庭の向こうに走って行った。
 食事も、寝る前までこれは質問責めですか……
 笑顔の下で沙射は少しげんなりした。あまりに頭を働かせ過ぎて頭痛がする。頭の奥の方から締め上げられるような苦しさに襲われ、額を押さえて呻いた。喋り過ぎて顔から血の気が引ききっていて、手を当てると冷たい。
「疲れたか? 先程より顔が白い」
 卓を片づけさせているリョウ・カが、頭を抑えている沙射に杏酒を出してくれる。
「はい、少し。ル王子は頭が良すぎるかたですね。なぜわたくしが、と思ったのですが、なんとなくわかりました」
「ああ、一を聞いて一〇〇〇を知る人だ。キラ・シの中で誰より大陸の言葉を使える、頭の良い人だ」
 一を聞いて一〇〇を知る、の間違いなのだろうか。それともその言葉を前提にして、ル・アがもっと凄いと言いたいのだろうか、それともそれがキラ・シのたとえ方だろうか、と沙射はリョウ・カを見上げて少し悩んだ。間違いだとしても、求められてはいないからこの人のいうことは訂正しなくて良いのだろう、と気にしないことにする。
「あなたもお上手ですよ」
 沙射はリョウ・カを見上げて告げた。それは事実だ。少し訛りがあるのと、語彙が少ないためと見られるぶっきらぼうさはあるけれど、会話するのに不自由は無い。
 どうやらキラ・シには尊敬語はあっても丁寧語は無いらしい。自分が誰からも丁寧語を使われないのは、下に見られているだけかと考えていた。けれど、リョウ・カもル・アに対して丁寧語を使わない。ならば、普通の言葉で喋りかけられているのだ。卑屈になる必要は無いと自分を落ち着かせる。
 ただ、ル・アは沙射には使わないけれど、父親には尊敬語を使っていた。リョウ・カもそうだ。族長に対してだけ言葉使いが違うらしい。
 羅季では、他者に話す時に親などの身内には尊敬語を使わないから、聞いていて妙だったが、そこまでキラ・シの彼らに羅季語を押しつけなくても良いだろう。
「ル・ビアが羅季語を覚えてくれるまでは俺とガリ・メキアしか大陸の言葉はわからなかったから必死だった」
「……お二人しか、羅季語をご存じ無かったのですか?」
 そういえば、キラ・シには『降伏する』ことができない、というのはどこかで読んだ気がした。それはたんに、異民族なので降伏を受け入れないだけかと思っていたが、言葉がわからないから、降伏していることがわからない、というのも会ったのかもしれない。
「東へ行くから大陸の言葉を覚えろ、と言われて冊(竹簡)を渡された時にはガリ・メキアを恨んだよ。おかげで、伝令の捕捉から、こうして城の中のことまで全部しないと進まない。他の誰も、こちらの言葉を覚えようとはしないからな。
 商人が必死でキラ・シ語を覚えているが、覚えた先から戦士達にモノを売りつけている。それ以外は全然だな。商売人以外は互いの国の言葉を覚えようとはしない」
 上二人の王子もだよ、とリョウ・カがくちびるだけで呟いたのを沙射は読み取った。
「先程ル王子から呼称についてのことをお聞きしましたが、『ガリ・メキア』はガリ王帝のことですよね?」
「コショウ?」
「呼び方のことです。『ル・ア王子』という呼び方が間違いだと教えて頂きました。ル・ビアが、ルの強い戦士という意味だと。ルが名でアが姓ということでよろしいですか?」
「アー…………そこらへんはル・ビアに聞け。羅季語で難しいことはわからない。日常会話と戦場での言葉がわかる程度だから。…………えっと、なんだって? ああそう、ガリ・メキアは『ガリの老戦士』という意味だ。まだそんな歳じゃないが、敬意をもってみんなそう呼ぶ。族長のことだな」
 つまりは長老とか、そういう意味を含む言葉なのですね、と沙射は察した。
「わたくしこそ、この短時間でル王子からたくさんのことを教えて頂きました。わからないことだらけです」
「苦労だな」
 大きな溜め息をつきながら、リョウ・カは髭の生えた顎を指先で何度も撫でる。その息には、ここ二〇年弱の苦労が滲み出ていた。
 あっと言う間に攻めて来て統一したように見えるけれど。言葉が通じても大変なのに、言葉もわからない他国に侵出したのだから、さぞ大変だっただろう。しかも通訳が二人しかいないのでは尚更だ。
「ガリ・メキアは、ル・ビアに、大陸の『紳士』になって欲しいようだ」
 声をひそめてリョウ・カは言った。
「キラ・シのみんなはル・ビアが大好きだ。ル・ビアが大陸の紳士然と振る舞ってくれることは望むが、完全に大陸人になられると不愉快だ。そうなるとあなたにも嫌悪の矢が刺さる。教えてくれるのはいいが、引き込むな。
 ル・ビアはキラ・シだ。俺は、ガリ・メキアの血を引くル・ビアこそが英雄キラの生まれ変わりだと思っている。
 俺達の英雄を、穢すな」
 座っている沙射は、真上から髭面に睨み落とされて動けなくなった。両頬に左右対称に描かれている紅色の刺青が、もう一対の瞳のように沙射を睨み付けてくる。
「…………ご期待に添えるよう、努力はさせて頂きます」
 喉が渇いてひりついたけれど、かろうじて沙射はそれだけ言えた。何か重たいものが転がった気がして胸を押さえる。王都に来て喋ったのはル・アとリョウ・カとガリ・アだけなのに、すでに沙射は気分が悪くなって来た。吐いてしまいそうだ。
「キラ・シの人間はル・ビアもガリ・メキアも含めて全員が血気盛んだ。何かあれば、あなたをかばうことは難しい」
「もう一つっ……いいですか? キラ・シでは、長子相続が一般的なのですか?」
 ジロリとした視線に怯えが走ったけれど、沙射もリョウ・カを見つめたままだ。その沙射に、まばたきを一つして、リョウ・カは告げた。
「普通は、そうだ」
 静かに。静かに呟いて、リョウ・カはその場を去った。
 リョウ・カの姿が見えなくなってようやく、沙射は体が震えていることに気付く。彼がいた時から震えていたのだろうか。今震え出したのだろうか。顔も指先も、体も冷たい。
 人手不足で教育係に呼び出された訳でないことは、先程のル・アを見ていて理解していた。しかし、もっと根深い問題に巻き込まれようとしていることに沙射は震える。どうも、第一第二王子が愚鈍のようだ。後継者争いがあるのかもしれない。
 ル・アに大陸の紳士になって欲しい、とガリ・アが言ったのだろうか。『紳士』という言葉は、そのまま受け取って良いものだろうか。彼らの言葉では『老戦士』が『長老』という意味も併せ持っている。もしかして『紳士』に『王』という言葉が隠されていたら? 『王子』という言葉が無いのだから、『王』という言葉が彼らの頭には無いのだ。
 ガリ・アは大陸を統一しながらも『皇帝』を名乗らなかった。立太子すらさせて貰っていないとは言え、名称上沙射の地位を脅かしてはいないのだ。それが、たんに単語の意味を知らないだけなのか、それがわからない。
 位としては王帝は皇帝より下で王より上だ。
 皇帝は大陸に一人。沙射が生きている限り、『曜嶺皇家』は存続しているので、曜嶺の血を引かないものが皇帝を名乗るということは、沙射の存在は許されないことになる。
 二年前にガリ・アが煌都に入り、王都と名前を変えさせた。自分は王帝を名乗った。どれだけ沙射が安堵したか、誰にもわからないだろう。
 大陸の誰しもが、ガリ・アが沙射を殺さずにいたことで、『皇軍』を名乗っていると見なしていた。だが、沙射の即位はされていない。皇帝位は空いたままだ。立太子もされていないので、たんにガリ・アが身分制度を知らないだけだろう、と諸国は推測していた。
 続くか続かないかわからない、わかっていてしないのか、わかっていないからしないのかわからないガリ・アの政に、忠言する者はいない。
 今でも、あちらこちらで反乱は起こっている。だがそれは、キラ・シが制圧したからではなく、ここ二百年、ずっと大陸は戦争と内乱をしていたのだ。国軍が立つのではなく、反乱であるだけ争いは小規模であると言える。その上で国境をまたいでの『戦争』はどこにも起こってはいない。キラ・シが制圧する前よりは大陸は平和になった。
 キラ・シになったから反乱が起きているのではなく、その前の群雄割拠の時代でも反乱は起き続け、政は狂っていた。キラ・シがついたことでそれは悪くなるだろうと考えられたが、そこまで酷くはなっていない。ただ『変わらない』だけだ。
 王都では、罪人の刑罰が激しくなったので、盗賊などが逃げ出して安全になった程だった。
 キラ・シには『量刑』というものが存在しないらしい。今までの羅季の刑罰では、盗みは罰金か投獄の上、刺青かこん刑。殺人も、罰金か投獄の上に死罪か懲役だった。だが、キラ・シはすべての罪人が死刑なのだ。キラ・シに捕縛されては、命がない。それがわかったとたん、盗人はいなくなった。店頭の、果物のかっぱらいでもその場で首を刎ねられる。割に合わなさ過ぎた。キラ・シは馬で追い駆けてくるので、どうやっても逃げ切れないのだ。キラ・シの馬は、屋根にでも簡単に登ってしまう。
 普通なら刑罰が重すぎる、と文句を言うものも出ただろうが、為政者はキラ・シだ。誰も何も言わない。そして、罪人を牢屋に閉じ込めて養う必要が無くなったので、王都の支払いが、莫大な金額で浮いたのだ。裁判所も、一つを残して全部撤収された。
 民人は、盗人や無頼がいなくなったので、安心して笑顔が増えた。王都では夜も遅くまで店が開き、人が出歩いても安全になったのだ。重税になった訳でも無く、犯罪は減った。大臣達が言葉の通じないガリ・ア達に苦慮していることなどどうでも良い。民はキラ・シの施政を喜んでいる。
 民とは逆に、王宮の中は汲々としていた。その一つが、ガリ・アの跡目問題だ。
 太子を立てていないのは沙射も知っていた。その理由は誰もわからなかったようだが、ル・アの質問でわかった。
 位階の意味がわかっていないのだ。
 大臣達の焦点は、万が一、今ガリ・アが病没でもすれば、跡目争いで王宮内に血が流れる可能性が高過ぎる、ということだった。
 沙射の『羅季礼』にも見られるように、最初、キラ・シに羅季礼をして相当多数の羅季人がその場で殺された。ル・アが先に王宮に入って、羅季礼をするな、と注意したにも関わらず、彼らは咄嗟に羅季礼を取るのだ。頭の良い者たちはル・アにしたがって無事だったが、その時の禍根は今も残っている。無為に息子や親を殺された者たちの恨みは深い。
 だからこそ、ただでさえ粗暴なキラ・シが、跡目問題などで紛糾すればどんな死者が出ることか。諸公の中には、この時とばかりに、反乱を起こして追い落とす算段をつけている者もいるだろうが、とにかく、跡目は決めておいて欲しいのだ。
 それは、誰に賂を渡して良いのかわからない、という困惑でもあっただろう。
 キラ・シの相続制度を、当然誰も知らない。子に継ぐのか、副族長に継ぐのか、わからない。子に継ぐのならば王子は三人いるし、副族長に継ぐのならばリョウ・カだ。だが、リョウ・カはガリ・アと似た歳で、ガリ・アが死ねばリョウ・カも近い。リョウ・カにも子供はいるようだが、それは発表されていないので誰かわからない。
 元より、大陸人からすると、髭もじゃで同じ髪形、目が細く彫りが浅いキラ・シ人は、見分けが付かないのだ。
 ガリ・アは髭が無く顔全面に紅化粧。リョウ・カと第一王子のグア・アは熊のような髭だが、年齢が違うので見分けやすい。シル・アとル・アも髭が無いが、シル・アは両方の頬に紅化粧でル・アは左頬だけだ。それを差し引いても、ル・アの方が誰が見ても容姿が整っているので、ル・アを見間違うことは無い。
 ガリ・アとル・アは、さすがに大陸人でも一目でわかるが、他のキラ・シはほぼ無理だ。誰に味方していいのか、誰を立てて良いのか、まったくわからない。
 羅季で唯一、キラ・シの相続の仕方を聞いたのは沙射だけだろう。
 大陸でもそうだけれど、長子相続が一般的なキラ・シの部族で、ガリ・アという偉大な王帝の跡継ぎを、第三王子にしようとしているとしたらどうだろうか? それが立太子しない理由だったら?上の二人は納得するのだろうか? 下の者達は納得するのだろうか。上二人の王子は羅季語ができないのだから、羅季の教育係がついている筈が無い。そして、ル・アにはガリ・アの申し渡しにより、沙射がつけられた。羅季人から見れば、ル・アが跡継ぎだと思われて当然だ。だが、ル・アに跡目を継ぐのならば、子供に継ぐということだ。子供に継ぐのならば、上の王子にも権利がある。
 しかも長子相続が常ならば、間違いなく荒れるだろう。
 その上で、沙射がル・アに大陸の教育を与え過ぎて、ル・アがキラ・シの民であることを忘れてしまえば、沙射が殺される可能性がある。そう、リョウ・カは言ったのではなかったか? 明らかにル・アは大陸の文化に憧れを持っている。合理的な精神を持っていることも質問の仕方でわかった。
 沙射が見聞きしていたキラ・シの文化より、大陸の文化の方が便利で合理的で手が込んでいて華やかだ。辺境から都に出て来て、その華やかさに潰れてしまう者などいくらでもいる。ル・アがそうならないと誰に断言できるだろう。若者にとって、いつでも都会はまぶしい場所なのだ。だが、それは周りの人たちのせいではない。本人の節制の問題だ。
 現状で言えば、将来的にル・アが頽廃したとしても、それは沙射のせいではない筈だった。だが、リョウ・カ達はそうは見ない、と事前に言われてしまったのだ。
「わたくしが…好きでこの場にいる訳ではないのですよ…」
 片づけられた卓に、手を揉み絞って沙射は呟く。
 幽閉されている時は気付かなかった。自分に自由が無いのだ、ということに。この場から逃げる気はまったく無いけれど。来たくて来た訳でもない所で、与えられた仕事をしすぎるな、と言われるのは理不尽だ。
 それでも、それに反論するなんの言葉も、沙射にある筈は無かった。


   □ 罰を与える


「沙射様っ! 御無事でっ!」
 沙射は庭の卓から、あてがわれた部屋に案内された。部屋に入ると麻美が手を揉み絞って駆けてくる。
「無事……って、何も無いですよ。どうしたのです。殺されるとでも思いましたか?」
「大臣がっ沙射様誅殺の疑いで牢屋に入れられましたっ! 沙射様が御無事なのかともうっ……いても立ってもいられませんでした。御無事で良かったっ! 良かったですっ!」
 そういえばそういうことがありましたね……と、沙射は遠い空の上で思った。ル・アの質問責めに汲々して、すっかり忘れていたのだ。
「それらの詮議で、明日からはもっと大騒ぎになるそうです。ですが、わたくし自身に何かある訳ではないと言うことでした。安心して下さい、麻美」
「そ……そうなのですか?」
「明日から、大粛清が始まるので、血なまぐさいことにはなりそうですけれど」
 ル・アの言いようでは、遠回しに沙射をキラ・シに殺させるという計画だった。直接沙射に手を上げるような者達ではないのだろう。
 それでも、キラ・シを倒すために沙射が死んでも良い。そう思った者達なのだ。そんな者達が、他にも居れば……
 そう考えて暗くなり掛けたけれど。とにかく、ル・アとガリ・アは沙射を殺す気はないと言ってくれた。今はそれにすがるしかない。
「陰謀も恐ろしかったのですが、キラ・シの人は男色が普通なのですってっ!」
 麻美は叫ぶように言った。
「だからっ……沙射様はお美しくていらっしゃるから、まさか、とは思ったのですが、……御身に何か……何も、ございませんでしたか?」
 まったく落ち着いている沙射を見て、質問はしてみたものの、麻美も落ち着いた。麻美の言葉を聞いてようやく、沙射は聞き返すのを忘れていた疑問が解けた。
「ああ、年下だったら稚児にしたかった、と言われました。あれがそのことだったのですね」
 言ってしまったあとで、沙射はル・アに接吻されたことを思い出して頬を赤くした。それを、その言葉で沙射が恥を感じたのだと、誤解した麻美がめくじらを立てる。
「まぁっ! 曜嶺皇帝の御嫡子を稚児にっ! なんて失礼なっ!」
「年上の人間にそうはしないようですよ。それより、どなたからそのようなことを聞いてきたのです」
「皇子をお待ちしている間に女官からですわ。その女官の弟が、キラ・シの民から見てちょっとかわいらしい顔をしてたようなのですが、キラ・シの軍人の何人もに乱暴されて、おかしくなってしまったそうです。キラ・シの軍人は女性には手を挙げたりしない代わりに、男子にそういうことをするそうですわ。もう……皇子が心配で心配で……」
「女性がとても少ないそうなので。だからでしょうね」
「皇子も……くれぐれもお気をつけて下さいましっ!」
「そうですね。できる部分は気をつけましょう」
 沙射は麻美を安心させるためにそれだけを言った。
 だが、気をつけて、と言われても、沙射の身分でル・アや王帝からそのようなことを求められて避けられる筈が無い。
 沙射はそれそのものの意味もあまりわかっていなかったし、危機意識はまったく無かった。それをして死ぬ訳ではないのだろう。それならばどうでも良いような気がする。
 元より、沙射の命などガリ・アの手の中なのだ。
 自分の体が自分のものではない。それは物心ついた時から、なぜか理解していた。
 産まれてすぐに死んで当然だった。その経歴は沙射に、希望の少ない性格を与えたのだ。何も望まない。生きていられるだけ奇跡なのだから。今が一番良い。そう考えている限り、沙射は何も心に残らない。
 与えられたこの部屋も、羅季の城の三倍は広さがあり、調度も豊かだ。歓迎は、されているらしい。それだけでも良かった。
 食事に呼ばれて出て行くと、当然ながら、先程の小卓など比べ物にならない料理が並んでいた。
 これは食べ物なのですか? と、沙射が問いたくなる程、綺麗な飾りつけがされている。羅季の城では、沙射のために羅季の料理人が入っていたけれど、宮廷料理ではなかった。
「曜嶺の皇子が来るから、と羅季の料理人にがんばらせた料理だ。さあさあ、食べてくれ」
 客人に先を譲るつもりなのだろう、ル・アが嬉しげに言うけれど。沙射には何をどう切り分けて良いのかわからない。普段でも麻美が切り分けて小皿に盛ってくれるのだ。しかし、今麻美はいない。自分で取り分けなければならないのだろうか?
 黙っていると、介添えの女官が綺麗に取り分けてくれてホッとする。皿にとられるとすでに切り身なので、安心して箸を運んだ。そんな沙射をル・アがにこにこと見つめている。沙射の倍ほど取り分けられた肉を、ル・アは驚くほどの速さで食べていた。
「面白いな。驚くと硬直するのだな」
「……そうですか? それは、気付きませんでした」
「わかりやすくていい。何か言ってそうなれば、間違っているとわかるからな。女官は嘘をつくのが巧いが、その点正直そうだ。…………お前、名前は? 他の女官と替われ」
 沙射に喋りかけていたル・アが、ある女官が側に来た時に、しばしその女官を凝視して、聞いた。
「……あ…………はい、名花と申します……」
 名乗ったけれど、その女官はビクビクと肩を竦め、ル・アから視線を逸らせた。ル・アは一度、その女官に鼻を鳴らして沙射に向き直る。ル・アの視線がはずれて初めて、彼女は逃げるように部屋を出て行った。
「部屋に不自由は無いか? 曜嶺皇帝の直系を迎えるとあって、女官達ががんばっていたが、手落ちがあれば言って欲しい。客人に不自由を掛けるのは本意ではないからな」
 女性からすぐさま沙射に話題を転換させるル・アに、沙射の方が付いていけない。女性に名前を聞いたのはなんだったのですか、と聞き返してみたいけれど、なんとなくそれは憚られた。何か失礼をしたようにも見えなかったけれど、あとで罰でも言い渡すのかもしれない。
 ル・アは『客人』と言った。沙射の立場は、教育係という『使用人』では無いらしい。
「俺は男を抱くが、年長の男をそうするほど世間を知らぬ訳ではない。その点は安心してくれ。礼儀はわきまえている」
 突然そう言い出されて、沙射の方が戸惑った。先程喋っていた時も、ル・アの話題転換は急過ぎたけれど、これも酷い。思いついたことを端から口に出すのだろうが、ぼんやりしていると付いていけない。
「突然、どう、なされたの、ですか?」
 まさか、部屋での麻美との会話を盗み聞きされていた? 聞き返した沙射に、ル・アは数舜、肉を食んで口を開く。
「宣言しておかないと歯止めが利きそうに無かったから、自分に言い聞かせてるんだ。先程もそうだったが、食べ方にも色気がある。顔も整っているし、肌も白い。とにかく綺麗で愛らしい。この場で押し倒しそうだ。凄く我慢してる。どうも、好きになるのは年上ばかりだ」
 当然のように沙射は箸が止まった。ル・アはカツカツと次から次に取り分けられる食事に箸をつける。あれそれ、と示した大皿から女官が小皿に取っていく。視線だけはずっと沙射を見ていた。言っていることとはうらはらで、風薫るようなその視線に嫌悪を感じはしないけれど、返答に困る。
「昼も言ったが、キラ・シには女がいない。日々の慰めには男を相手にする。それは山を降りても一緒だ。女には慰安を求めない。
 ただ、その相手は元服前の子供に限られる。戦士が相手にされるのは屈辱だ。族長の血筋ならば、とりあえず目下に限られる。でもやはり、子供や戦えない者を相手にする。『戦士』が慰めに使われるなどと、あってはならない所業だ。
 あなたが俺より年下なら、戦士ではないようだし、どうにか言い訳を考えて誘ったが、いくらなんでも年長にそういうことはしない。とても美しい人に手を出せないのが苛々する。だから、先に言った。自分への戒めだ。本当なら凄く口説きたい。
 あなたから抱かれたい、と言ってくれるのは自由なんだ。据え膳を断るのは恥をかかせることにもなるからな。それを希望している、と伝えておく」
「……そ……そうですか……」
 としか沙射は言えなかった。
 口説かれたことなど沙射は一度も無い。それがあからさま過ぎてあきれるほどの口調だということもわからない。そして、それは口説きの一種ではないのか、と聞き返すこともできない。
 のんびりと困惑している沙射とは対照的に、傍で聞いていた女官達はみんな、それは脅しではないのか、と心が冷えた。
 いくら曜嶺皇家の嫡男と言えど、この時制ではなんの権力も持ってはいない。
 第三王子とは言え、ル・アはこの二年で王都を完全掌握している。何かあればル・アに相談が入るのを、女官達は見ているのだ。
 第一第二王子は威張っているだけで、ほぼ実権が無い。鍛練しているか、閨にいるか、どちらかだ。ル・アも女官に手を出す数は多いけれど、二人の兄王子に比べれば少ない。それはひとえに、王宮中走り回っていて時間が無いからとも言えた。
 休憩室で他の女官と喋っていると、あちらこちらでル・アの目撃談があって、影武者が五、六人いるのではないかと思えるのだ。ル・アが女官長と長い間話をしているのもよく見かける。ル・アは暇そうな女官を見つけると話し相手になって欲しいらしく喋りかけてくる。色事抜きでも愛想の良いル・アは、女官達にも諸公の媛達にも人気があった。
 キラ・シの男達の中では、大陸人から見ても整った顔の内に入ったのも人気の一つだろう。異国情緒漂う美形だ。
 そんなル・アが、高官を殺したのは無礼打ちだった、と女官達は記憶していた。
 一人は食事中に箸で眉間を貫かれた。一人は会話中だったので、手刀で心の臓を貫かれた。理由は、軽くキラ・シを馬鹿にした発言をしたからだ。大陸の人たちは、これぐらいは気にしないが、キラ・シの禁忌に触ったのだろう。
 王宮内では近衛兵と王帝以外、武器を持たないのが決まりだ。第一第二王子はその禁を破って武器を携帯しているけれど、ル・アは持っていない。だが、そういう殺し方ができるからだとも言えた。
 どちらも即死で苦しくはなかっただろう。羅季の箸はそういう目的にならないように、先を尖らせてはいない。簡単に刺さらないように先端を四角く切ってあるのだ。ただ細いだけの棒を頭蓋骨に刺したのだから、ル・アの腕力がわかるというもの。そんなル・アに『抱いて欲しいと言ってくれ』と言われれば、それは脅迫だろう。
 沙射はそういうル・アを知らないだろうけれど、女官達には笑い流せる話題ではなかった。実際に、弟や兄、戦士ではない若い父親をキラ・シの男達に乱暴された女官は多い。
 キラ・シの男達は遊廓に行かないのだ。
 煌都が制圧されてから、キラ・シに男色の趣味があるとわかって、遊廓に男子が勤めるようになった。それもル・アがガリ・アと相談して男だけの遊廓を国庫から作ったのだ。都中で、キラ・シの男達が起こした、男女問わずの強姦事件が多発したからだった。
 物々交換が基本のキラ・シの男達は、遊廓に銭を使うという観念が無いので、普通の遊廓に男を入れて貰っても意味が無かったのだ。キラ・シの男達は、不思議にも遊廓の女には目もくれなかった。
 キラ・シの男は全員が『戦士』だ。キラ・シの稚児の条件は『戦士ではない年下の男』だった。一四歳のル・アからすれば、その対象は子供だけだが、四〇歳を過ぎているガリ・アから見れば、老人でなく、兵士ではない男は全員その対象になる。
 都には戦士の方が少なかったので、ほとんどの男がキラ・シの稚児の対象になった。普通は相手の承諾は必要らしいけれど、この王都に関してはキラ・シは『勝利者』『征服者』だ。
 勝者は敗者のすべてを我が物にする、それがキラ・シの常識。ル・アがどれだけ止めても、それだけは止まらなかった。
 長であるガリ・アが「そんなにめくじら立てなくても」という態度だったので余計だ。
 弱い者は強い者に征服されて当然。ほとんどのキラ・シはそう考えていた。その代わり、襲おうとした男に返り討ちにあっても自業自得で、キラ・シを殺した者に刑罰は無かった。刑罰どころか、その男は軍に高給で引き抜かれさえしたのだ。
 キラ・シを殺しても咎めが無いとわかった王都の無頼達が、徒党を組んでキラ・シを襲ったけれど。油断をしていなければキラ・シ一人に十人で掛かっても返り討ちに遭うだけだ。よしんば逃げたとしても、キラ・シは一度敵と見定めた者は、殺すまで寝食を忘れて追い駆ける。途中で見失えば夜中でも近隣の家を全部覗いて回る。そのうち、住民達がキラ・シに犯人を教え出した。キラ・シに乱暴者を教えると、その場で殺してくれるからだ。
 最初の数カ月で町から無頼がいなくなり、その時期にキラ・シ相手の娼館もできて住人に被害が無くなった。キラ・シが制圧した混乱は、それで収まったのだ。今では王都の民はキラ・シに感謝している。多少税が高くても、無頼がいない方が生活はしやすいのだから。
 そんなキラ・シの男好きを知っている女官達は、曜嶺皇家御嫡子はどうお返事なさるのだろう、と興味津々だ。
 そんな女官の思いなどまったく気付かず、沙射はすでに箸を進めていた。ル・アが食べ始めたのでつられたのだ。
 それだと、キラ・シの男は子供の頃にみな、そういうことをされたことがあるのだろうか。沙射はそんなことを考えていた。
 にこにこ沙射を見ているル・ア。くちびるに溢れる肉汁を長い舌で舐め上げる。指も髪もそうだけれど、ル・アは舌も長かった。手も足も長い。末端の長い人ですねえ……と、沙射は感心する。王帝はそれ程目立ってはいなかった筈なので、母親がそういう体だったのだろう。だが、口周りをそうして舐めるのはあまり褒められた仕種ではない。沙射はふとル・アを見てそれを糺そうとしたのに。
「……では、ル王子も幼い頃にそういうことが?」
 口から出たのはその言葉だった。アレ? そんなことを聞くつもりではなかったのですけれど……と沙射も省みる。言われてすぐにル・アが噎せた。笑い過ぎたらしい。
「………………本当に、面白いな」
 箸を止めていくばくか笑ったあと、ル・アはそう言った。
「わたくしは、笑えるようなことを申し上げましたか?」
「そういうことを聞き返して来れるのが面白い」
 まだ喉の奥で笑いながらル・アは沙射を眺める。肩からさらりと髪が流れた。「来られるです」と沙射は小さく訂正を入れる。
「羅季語を喋ることができても、ろくに会話ができる人間はいない。そんなふうに突っ込んだ質問を返して来る者など全然いなかった。度胸がある。さすが父上が呼んで下さっただけはある。嬉しいよ」
「質問されるのが、嬉しいのですか?」
 沙射の問い返しにル・アがまた笑う。
「……嬉しいさ。ただ女官に命令しているだけでは言葉は上達しない。質問されて、その回答を頭の中で繰ってると、覚えたけれど眠っていた単語が次々口元に殺到してくる。
 そして、意味が通じた言葉を話せている。それがわかるのが楽しいし嬉しい。今まで学んできたことは間違いではなかったと確信できる。
 それに、美しい人を前にしていれば、言葉が通じなくても楽しいさ。閨に誘えない分残念だが、見てるだけで満足できる美しい人はそういない。三人目だ」
 どうしてこの人はいきなり別の話に飛んでしまうのだろう。沙射は話題が急転換するたびに、自分の脳が止まる音が聞こえるような気がした。
「王子が見とれるようなかたとはどのようなかたでございますか?」
「一人は父上だ。もう一人は北東の剣士だ」
 ガリ・アと剣士と自分を並べられたということに沙射は混乱した。
 ガリ・アは確かに男振りの良い面相だったけれど『美しい』ではなかった筈だ。端正であることは間違いないが、ル・アの『美しい』のレベルがとたんにわからなくなる。もう一人の北東の剣士は、どういう美しさなのだろう。
「あなた様こそ、母君の美女面と同じお顔をなさってらっしゃるではないですか。キラ・シの美人と言えばあなた様のお顔ではないのですか?」
「………………あの面を知っているのか……」
 珍しくル・アが体を引いて言葉を濁した。初めて沙射から視線がはずれ、もそもそと箸を口に運ぶ。
「はい。わたくしの手元にもあります。とても美しくて、毎日眺めていました。わたくしの方こそ、憧れの美人と同席させて頂いて嬉しいです」
 沙射が言葉を終えた瞬間、ル・アの全身に何かが走った。
 空気が凍った、というのはこういう状態なのだろうか。
 女官達が息を呑んだ。悲鳴を上げそうになった女官をル・アが睨み付けて黙らせ、沙射に向き直る。
 その強い、強過ぎる視線を初めて見て、沙射は逆に頭の中が麻痺したように感じた。
 そうしなければ、その視線に圧されて失禁してしまったかもしれない。女官の数人が、腰を抜かして床にへたり込んだ。
「わかったぞ」
 ル・アは箸を置いて沙射に向き直った。
「あなたが何でも言うのは、恐怖を知らないからだな」
 ル・アの言葉が、沙射には理解できなかった。ル・アにしてはとてもゆっくりと言われたが、何を意味しているのか、わからなかったのだ。
「幽閉されていた皇子と聞いたから、どれだけ卑屈な性格かと懸念していたが、違うじゃないか。城に閉じ込められていたことを苦とはみなしていなかったのだな?」
「……………はい。何不自由無くして頂いておりました」
 どっかりと椅子に座り直して、ル・アは胸に腕を組んだ。大きく息を吐く。その間もずっと、沙射を見たままだ。おもむろに立ち上がり、沙射の前に立つ。
「食事中に悪いが、立って貰えるか」
 言われて立ち上がった沙射は、ル・アの長い指で右肩を掴まれた。ギリッ、と痛みが走って目をしかめる。その視界の端に、ル・アの右手が振り上げられたのを、見た。
 風圧と、その手が風を切る音、女官の悲鳴を、聞いた。
 一瞬後、すべての音が消えた。けれど、目は見える。
 先程までル・アを見上げていたのに、右側にあった食卓が見えていた。女官三人が壁の隅で抱き締め合って顔を覆っているのを、見た。
 もう一度、風圧。今度は壁が見えた。
 キラ・シの縁起物の飾りだろう、紅に染め抜いた壁飾りが白い漆喰に飾ってある。
 キーン……と、耳鳴り。
 顎を持って、顔の位置をまっすぐより上に整えられた。ル・アの顔が見える。
 ル・アが何か言っていた。口が動いているけれど、沙射には聞こえない。音が聞こえない。
「……るか? 聞こえるか?」
「……ぁ…………はい、聞こえま……す……」
 口を動かして初めて、口の中に生臭い味が広がった。くちびるから、何かがつらりとこぼれていく。粗相をしたのかと慌てて口元を拭うと、その手が真っ赤になった。
 なぜ血がわたくしの口についているのでしょう……
 沙射は、自分の顔が熱くなっているのに気付く。まるで火を当てられたかのように痛い。
「見ろ」
 掴まれていた肩を揺さぶられ、顔を上げる。
 先程と一緒。強い視線のル・アが沙射を見ていた。
「この大陸を統一した皇帝の直系だと聞いた。父上も幾ばくか上として対しているようなのでそう対している。だが、誰が言っても駄目なことは駄目だ。父上に言われても決闘を申し込む。あなたは刀を使えないだろうから、顔を打った。父上に願い出て俺を罰して欲しいならそうしろ。喜んでその罰を受ける」
 顔を殴られたことを、沙射は初めて気付いた。
「俺は『戦士』だ。刀を持てない女と比べるな」
 低い声でル・アは言い含める。
「あなたが曜嶺皇家の直系でなければ、この場でこの細首をねじ切っている。今後、二度と口にするな」
 今、頬を打った掌が沙射の細い喉にからみついてくる。軽く、だったけれど、力を入れられて沙射は息が止まった。
 自分の言葉でル・アが怒ったのだ。否、激怒したのだ。
 ようやくそのことを知った。
 あれだけ語気が荒いのに、怒る時には静かになるらしい。それとも相手が曜嶺皇帝の直系だからだろうか。
「言葉は通じているか? 意味はわかっているのか? あなたの言葉に直して言ってみろ」
「……気高き戦士であるル王子に対して、二度と女性と比べるような発言は致しません」
「よし」
 ル・アは頷いて、沙射の肩を押さえて椅子に座らせた。
「このことは父上にも誰にも言わない。女官達も喋るな。扱いが変わるようなことはしないと約束する。第三王子に暴行を受けた、と父上に訴え出るのは自由だ。逃げたりごまかしたりはしない。好きにしろ。
 悪いが中座する。食事を楽しんでくれ。女官、皇子の顔を冷やすものを持って来い。それと、名花を呼べ、それと、肉だ。俺の部屋に焼いた雉と酒を持って来い。雉だぞっ、豚や牛を持って来るなっ!」
 ル・アはそのまま出て行く。
 沙射は、座らされた椅子で呆然としていた。
「殿下……冷たい絹です、どうぞ」
 女官が、冷たく絞った絹を持って来てくれた。それを頬に当てて初めて、顔が酷く腫れ上がっていることに気付く。
「痛い……」
 ようやくそれを知覚した。
 顎が動かないほど痛い。掴まれていた右肩も痛い。泣いた気はしなかったが、涙が流れていた。
「楽しんでいるかな? …………沙射皇子っ、どうしたっ! ル・ビアはどこに?」
 リョウ・カが笑顔で入ってきたけれど、沙射の様子に慌てて駆け寄ってきた。沙射は頬を抑えて動けるものでもない。
「これっ女官達、何があったっ?」
 問われても、女官は誰しも口を閉ざし、目を伏せる。
「まさか、ル・ビアに殴られたのか? 沙射皇子。一体何があったっ!」
 説明しようとして、沙射はまだ喋ることができないことに気付く。手を上げて待ってくれ、と訴えてみた。意味は通じたらしく、リョウ・カは姿勢を正して辺りを見る。何も乱れてはいない。女官が怯え、沙射が殴られ、ル・アがいない。推測されることは一つだ。
「……わたしが……ル王子に失言をしたのです……」
 沙射はようやく口が動いた。
「本来なら、殺されるほどの失言だったようです。謝って許していただけることでしょうか?」
「それは大丈夫だ」
 また羅季に送り返されるのだろうか、それとも、擁護をはずされるのだろうか。沙射はリョウ・カを見上げた。それだけでも、頬から喉が引きつって痛い。
「罰を与えた時点で、すべて終わった。すでにル・ビアはまったく気にしていない」
「そういう……ものなのですか?」
「そのための罰だ。何をして殴られたのかあなたがわかっていて、二度とそれをしなければ良い。二度目は殺される。止めることは不可能だ。そのことでどんな罰を受けようとル・ビアはする時はする。
 ル・ビアはガリ・メキアの次に刀の使い手だ。気が付いた時には首が胴から離れている。キラ・シは殺す相手をいたぶったりはしない。苦しくはないから、その点は安心するといい。
 右手で殴られたのは、手加減された証拠だ。殺したいほど怒った訳でもなかろう」
 確かに、ル・アは右で殴っていたが、なぜ右手で殴られたとわかるのだろう。
「ル・ビアの利き手は左だ。左で殴られれば、あなたは痛いと思う前に意識を失っているだろうし、首がおかしくなっている筈だ。ル・ビアが本当に怒れば、右は使わないし、咄嗟に攻撃するから机もひっくり返っているだろう。怒ったのは怒ったのだろうが、大したことではない。
 おい、もっと冷やす物をもって来い。この顔で部屋に帰したら、あの美人女官がひっくり返ってしまうわ」
 まったくあっさり言われたけれど、その言葉の凄絶さに沙射はようやく震えた。前にしたことがあるから、そこまで断言するのだ。
 そういえば、出会い頭でも、『次は逃げろ』と言われていた。咄嗟に物を投げるし殴るから避けろ、と本人から聞いている。
 今の殴り方をされて、避けられる人がいるのだろうか。
 羅季城に出入りしていた商人が何度も沙射に向かって美人だ美人だと言っていたので、その違和感に慣れてしまっていた。では、あの商人に美人だ、と言われた時、わたくしは怒るべきだったのでしょうか? それともキラ・シの民だから、ル王子は怒ったのでしょうか? ル王子はわたくしにも美人だと何度か言ったように思うのですけれどそれはまた別なのでしょうか。
 思い起こせば、ル・アは『美しい人』とは言っていたが『美人』とは一言も言っていなかった。『美しい人』と男に向かって言うのもどうかとは思うが、文法上はおかしくない。だが、一般的に『美人』は女性に対して言う言葉だ。しかも沙射は、女面と並べて『美人』と使った。確かに、女性とル・アの顔を比べたのだ。
 幽閉されている間、麻美しか話し相手がいなかったので、沙射は言葉の細かい使い勝手を習得してはいなかった。考えようとするけれど、頬がジリジリと痛んで涙が止まらない。
「ル・ビアは普段、そうそう怒らない。それは安心するといい。キラ・シの男は、『戦士』であることを否定されると怒る。そのことで度々決闘があるほどだ。普通は、相手を殺さない限り収まらない。理由は聞かないが、今回もその関連だろう? 気をつけてくれ。あなたの死体を片づけるのは嫌だ」
 もう少し言葉を婉曲に言って欲しい。沙射は願った。
「申し訳ありませんが、今晩は別の部屋で休ませて頂いてよろしいでしょうか? この顔を見せると婆やが卒倒してしまいそうです」
 殴られたことなど無い沙射は、この痛みがいつまで続くのかもわからず当惑する。
「そうだな。せっかく来て頂いたあんな美人に早死にされてはたまらん。以前にあった時とまったく変わらない懐かしい客人だ。皇子が部屋に戻らないよりは、あの美人に他に行って貰う方が簡単だろう。何か用を頼んでよそで寝て貰おう」
 リョウ・カは食堂を出て行った。
 キラ・シの男達にすれば、曜嶺皇帝の皇子が来たことより、麻美が来た方が嬉しいらしい。
 ここでも麻美は美人なのだと沙射は納得する。きっと自分はリョウ・カにとっても目玉お化けなのだろう。
 沙射を美しいというル・アが、やはり変わっているのだ。
「痛い……」
 思わず笑ってしまって、頬がビリッ、と痛んだ。


   □ 目尻の紅


「昨晩は失言をしてしまい、申し訳ありませんでした」
 翌朝。沙射はル・アの部屋を訪ねて頭を下げた。
 ル・アは机で何か書き物をしている。傍で小姓だろうか、キル・シュというキラ・シの少年が墨を擦っていた。梅墨の匂いだ。擦ると梅の香りがする、上等な墨だった。昨日香った、ル・アの髪の匂いはこれではないかと沙射は推測する。
 朝食はル・アと、と言われていたので、起きてすぐに来た。まだ寝ているのではないかと思ったのだが、すでにこうだ。この時間に起きていて、なぜ昼間寝台にいたのか、沙射には未だに理解できてはいない。
 昨日見た通り、部屋には竹簡や帛が所狭しと積み上がっていた。部屋の向こう半分はそれで埋まっている。散乱しているのは一緒だが、その書簡が違うように思った。昨日のは片づけられて、今日また散らばったのだろう。まだ日が登った所なのに、いつこんなに読んだのだろう。
「ああ、二度目が無ければ構わない。それより、これはどういう字だ。大きく書いてくれないか?」
 平身低頭している沙射を手で呼び寄せて、ル・アは竹簡と筆を出した。ル・アが指さしている字を大きく書き出すとル・アもその隣に真似して書く。これはこれは? とずっと字の練習が続いた。
 本当に、昨日のことはまったく気にしていないらしい。
 それよりも、沙射は思わず笑いを噛み殺した。
 書かれた文字は、元の字を知っていなければ判別できないほど崩れていたのだ。沙射が書いて見せても、三度書くとすでに元の形が無くなっている。それは画数が多い字ばかりだったけれど、ル・アが苛々しているのが手にとるようにわかった。
「左で筆を持たれるから余計に難しいのでしょう。筆は右手で持つものです」
「ああ……そうらしいが、右手なんて、尚更こんな細かいことはできない」
「文字も十年ほど練習なさったのですか?」
「あー……いやー………………どうかな。羅季字を練習し出したのはここ数年だな」
「会話と一緒に、文字は勉強なされなかったのですか?」
「読むのはできたが、書かなかった。いや、書いたが、最初の内だけだった」
 またル・アが訳のわからないことを言っている。
「他の商人にも驚かれたんだが、キラ・シには文字が無いんだ」
「はい」
 としか、沙射は言えなかった。
「文字が無いと言うと……文献などはどうなさっているのですか?」
「文字が無いんだから文献なんか無い」
 意味が、沙射にはわからなかった。書が無い世界、というものが想像できない。
「そういえば、なぜ、キラ・シ語を大陸に流布させないのですか?」
 沙射はそれが不思議で仕方が無かった。
 明快な返答をしていたル・アが、何度か口を開閉させて口ごもる。がたん、と椅子を沙射の方へ向けた。
「したいのはしたい。だができない。理由は、第一に、キラ・シ語には文字が無い。キラ・シ語を流通させても、実用にならない。今ある羅季語の書簡を書き換えることができないのだから。第二に、我が軍だけが知っている言葉ならば、暗号として使える」
「でも、商人のかたもキラ・シ語を学んでいるのではないのですか?」
「通り一遍の言葉はな。元々がキラの名を持つ部族は言葉を二つ使う。部族内で使う言葉と、部族外で使う言葉だ。商人達は部族外で使う言葉を覚えている。真実のキラ・シ語は我が軍と言えど、キラ・シの部族しか知らない。部族内の言葉を外の人間に教えることは死に値する」
「それは……まったく言葉が違うのですか?」
「まったく違うものもあるし、微妙に違うものもある。あとから部族に加わったものは、それを教えられてようやく、完全に受け入れられたと安堵する」
 小さく頷くル・アに、沙射はそれ以上聞かなかった。
「困りませんか?」
「困らなかったから、無かったんだろうな」
「そうですか」
 書が無くて困らないというのはどういうことだろう? 沙射はやはりわからなかった。羅季では、ちょっとしたことでも全部書にして残すのだ。だから、今でもル・アの周りに書簡管理人がいる。沙射と無駄口を話したことは記録しないが、大臣や商人との会話は全部記録される。それはキラ・シであっても踏襲しているらしい。
 沙射は自分が字を書けるから知らないが、文字を書ける羅季人はそう多くはない。生活に必要な文字は読めても、書くことはできないし、書物などは読むこともできない者の方が多いのだ。だから、役所の前に交付などを立て看板で出すと、字を読めるものが読み上げてみなに知らせる。書簡が読み書きできるのは大商人の子息や王侯貴族だけ。商人の子供でも娘は学ぶ必要はないと言われる。ましてや、物売りや百姓など、読むこともできない。店頭の『何個でいくら』という文字が、生活の必要上かろうじてわかるだけだ。
 それをわかっていれば、『文字が無い』ということも理解できたかもしれない。多くの民百姓には、文字など必要ないのだから。
 だがもう一つの問題は、キラ・シの王子であるル・アが文字を知らない、という点だ。大陸ではどの国でも、余程愚鈍でない限り、王子は文字を読み書きできる。
 族長という、部族の頭目でも、文字が必要ない暮らし。それは沙射の予想外で当然だった。
「だが、俺は困ったんだ」
 ル・アは言いながら、竹簡を横にして、右から左に、みみずがのたくったようなものを書いた。
 禁忌ならもう聞くまい、と思っていた沙射に、ル・アの方が言葉を繋げる。
「これを見てくれるか?」
 ル・アはいくらかの竹簡の束を出して見せた。先程竹簡に書いたものと似た、みみずがのたくったようなものが書いてある。まったく沙射にはなんの字かわからない。
「キラ・シ文字だ」
 ル・アは少し自慢げに告げた。
「羅季字のように複雑なものではなく、音をそのまま文字にしてみた。まだ……というか、俺が字が下手だから、形になっていないが」
「……文字を……作ってらっしゃる?」
「ああ」
 みみずを指さして沙射を見上げるル・ア。とても嬉しそうだ。
「戦場に出たら、状況を書き残す必要に迫られた。商人達は署名を求めて来るし、売買の状況は残さないと金がいくらあるのかわからなくなる。父上もリョウ・カもただ暗記していたらしいが、それじゃ困るだろう」
 暗記していたのなら良いのではないのか? と沙射は思った。
「父上かリョウ・カがいないと話が進まない。俺だけでは商談ができない。以前の商談を書き留めていてくれたら、誰にでも商談ができる。父上とリョウ・カが戦いに出ている間に後ろで商人と取引をしたいのに、父上やリョウ・カを待つのは時間の無駄だ。だから、書き留める必要がある。だが、父上もリョウ・カも、喋るのと読むのはできても、字は書けないんだ。羅季字は難し過ぎる」
 はぁ……と沙射は言いかけて、先程ル・アが書いたみみずを見た。
「何も無い所から字をお作りになったのですか?」
 沙射はようやく、その事実に気付いた。
「そうだ。画数の多い羅季字をキラ・シに覚えろと言っても無理だ。だから、ほとんど一筆で書ける字にした。字というよりは絵、シルシだな。小刀で木に刻むにしても書きやすい。キラ・シは絵を描く習慣も無いから苦労したが、何人かは覚えてくれたから、戦の采配もしやすくなった」
「それは、とても凄いことなのではないのですか?」
「凄いだろう」
 ふふん、と笑顔でル・アは頷いた。がんばったんだっ! と満足げだ。
 確かに羅季字は画数が多く、沙射が覚えるだけでもかなり時間が掛かった。だからと言って、それを覚えるのを放棄して新しい字を作る、というのはどちらが面倒だろう。
「これはどう読むのですか?」
 先程ル・アが書いたみみずを沙射が指さして問う。
「ゲルウア」
「はい?」
「腹が痛い、というキラ・シ語だ」
「……はい」
 文字の形からは、音はまったく沙射には読み取れない。羅季字に掠りもしない文字だ。
「戦場で、同じ症状で倒れる者が続出した時期があった。看病の方法を書き留めたかった。商人と話すとかより、それが最初に字を作りたいと感じた時だな。
 この薬草が効いた、この薬草は駄目だった、ということが誰にでも、あとからわかるようにしたかったんだ。薬草だって山とは違うから、初めて見るものだし……山のと似たのを使って効く時もあれば、効かない時もある。草を取っておいても枯れるし、絵で描いて、駄目と書いておくしか無い」
 さらさらと、ル・アが竹簡の本数をまたいで草の絵を描いた。字とは比べ物にならないほど巧い。
 帛ならまだしも、竹簡をまたいで何かを書くという動作に沙射はまた驚いた。竹簡は文字を書くためのもので、地図や絵などは必ず帛や大きな板に書く。ただ帛は高いので、庶民に出回る歌などは竹簡だけだ。大体はそれも買えず、口移しに覚えていくだけだった。だが、今ル・アがしたように、竹簡にまたいで絵を描いても十分用は足す。
 大陸の誰も、竹簡をまたいでものを書くことは考えつかなかっただけだ。書いた者はいるかもしれないが、今まで沙射に送られてきた書では見たことが無い。
 竹簡を開けた時から、竹簡の幅で字を書くことは当然のことなのだ。これは大陸人ではないキラ・シだから出た発想なのだろう。
「お上手ですね。凄く、お上手です。竹簡に絵を描くと言うのは……凄いですね」
 沙射は素直に感心した。
「商人にも言われた。帛が無ければそうするしか無いのに、誰もしなかったそうだな」
「はい、見たことがありません。絵巻物は帛や板書だけです」
 看板のように、木の板に絵を書くというのもある。帛よりは安価だが持ち運びが面倒なので、絵巻物という分野では普及していない。
 ル・アが、筆をぶらぶらさせながら沙射を見上げる。草の絵の傍にみみずをにょろにょろと書き足した。
「草の詳細や使い方を、羅季字で書いていたんだが、急いでる時に墨なんか擦っていられないし、で石や短剣で木切れを刻んでいたんだが、そうなると、羅季字なんて画数の多いもの、書いていられないんだ」
 絵も、直線が重なっているような書き方だ。これは小刀で刻むにも簡単そうだった。筆と言うものが無いだけで、これだけ描画方法が変わるものなのだ。それに沙射は感心した。
 沙射が産まれた時から筆はあるので、筆以外でものを書く方法ということを考えてみたことも無い。
「墨壺を持って動かれたら良かったのでは?」
 書を生業とするものや商人など、家の外で書を必要とする者達が持っているものだ。小さな壺に、先に摺って作っておいた墨汁を入れ、首や腰に掛けて持ち歩くのだ。時間が経てば腐って臭い出すのが難だが、すぐに書ける利点は強い。
「墨壺? …………ああっ! あれなっ。…………その時は気付かなかった。というか、墨をするのが面倒だったし筆を使うのも難しかったし。白い石で書いたらすぐに書ける、とにかく、墨を摺ってる時間なんかどこにも無かった」
 今でもこれだけ運筆が駄目なのだ。数年前となると推して知れる。
 とにかく、『羅季字を書きたくなかった』のだろう。
 しばらく文字の練習をしていたけれど、とうとうル・アが筆を投げ出した。竹を曲げて曲げて曲げて、ついに弾けたかのように、椅子から跳ね上がる。さすがに食事の時間だろうと思ったが、まだらしい。
「喋るのは楽しいが字を書くのは楽しくないっ! あーっ! 肩が痛いっ! 鍛練してくるっ! 髪を結えっ!」
 傍にいたキルシュが、手早くル・アの髪を結い上げた。耳に被るように前髪をたゆませて頭頂で結び、半分ほどの髪を数本の三つ編みにして他はそのまま背中に下ろす。三つ編みの先端には大きな黒い珠が留めつけられた。
 ふふんふんふん、とル・アは鼻唄交じりに、結い上げられた自分の髪を眺めている。紅をつけた指で、左頬の紅の文様をなぞった。その指で両の目の目尻も赤く隈取る。眉も紅でなぞった。
「普段は結わないのですか?」
 その方がお綺麗ですのに……と言う言葉を、沙射は噛み殺した。
 ル・アが赤く隈取った目の端で沙射を見る。口元は笑んでいるけれど、隈取りのせいで瞳が笑っているようには見えない。
 ゾクッ……と、沙射は体を這い上がってくる何かを感じた。
 灼いのか寒いのかわからない感覚だ。
 ただ、わかっていることは。
 紅色の隈取りをとった今のル・アの顔が、何よりも沙射には美しく見えた、ということ。
 まるでそのまま自分の首を差し出したくなってくるような、威圧される艶。
 初めての感覚に、沙射は自分が何を考えているのかわからなくなった。茫とル・アに見とれてしまう。
「本来なら戦場に出たことが無いから元服しても結えないんだ。髪を結うのは参戦した戦士の証しだからな。鍛練の時だけは別だ。かぶりものを持って来いっ!」
 ル・アが部屋を出たので、沙射もついて出た。持って来られた薄物を、ル・アが沙射の頭から被せる。その時に、沙射の髪にさらり、と指先を絡めて離れた。うなじにル・アの長い指が当たって、沙射は小さく肩を竦めてしまう。
「練兵場は砂ぼこりが酷い。被ってろ」
 キラ・シ独特の巨刀を振り回し、ル・アは軍人達の中に駆け入った。一兵卒と一緒に刀を振り回している。誰も『第三王子だから』と気にした風情が無い。平気でル・アを地面に叩き伏せたりしている。
 みんなル・アと同じように髪を結っていた。髪に珠をつけていたのは飾りだと沙射は思っていたけれど。刀を振り回す勢いで髪を叩き上げて目つぶしを掛けている。
 刀も大陸のものからするととても大きい。沙射から見ると、刀に振り回されているように見えるけれど、その遠心力で戦っているようだった。一度刀を回し始めると体ごとくるくる回っている。
 みんな良く回り、良く飛び跳ねた。特にル・アなど、まるで舞を踊っているかのようだ。わざわざ作られているらしい段差の上を駆け回って刀を振るっている者もいる。ル・アもそこに駆け上がり、落ちるっ落ちたっうわぁっ! と沙射を焦らせた。一呼吸で身の丈以上の壁に駆け上がり、上から刀を振り下ろす。まるで空を飛んでいるかのようだ。羽でも生えているのではないかと目を疑う。
 沙射は幽閉の身で、武術を嗜むことはできなかった。小塚一本持ったことが無い。
 父も先祖も弓の名手だったと、麻美から聞いて知識だけはあった。世が世なれば、自分もこうして練兵場で鍛練していたのだろうか。武器など持ったことが無いけれど、それで自分に人が殺せるのだろうか。
 戦場に出たことが無いと言っていたけれど。ル・アは、罰で人の首を跳ねたことはあるようだった。罰で、ということは同族の者ではなかったのだろうか。『敵』ではなかったのではないだろうか。それでも、躊躇無く殺したのだろうか。
 その時に、何を思ったのだろう。
 この時代、人の命はとてつもなく軽いのだ。
 誰かの号令でル・アだけが動きを止めた。練兵場の端に歩いていく。側の水桶に居た者達が順繰りに水を被っている。ル・アもその中でぐしょぐしょになり、その内、水の掛け合いが始まってはしゃいでいた。子供はさっさと帰れ! と追い出されて、ル・アは沙射の方へと歩いて来る。沙射の被りを取り上げて顔と髪を拭きながら回廊を歩いた。その後ろを、女官が雑巾で拭いて回っている。他の男達はまだ刀を振り回し続けていた。
「いつまでも練兵場にいるから、合図を入れてくれと言ってるんだっ。刀を振るうのは楽しいが、政務が進まないからなっ」
 がしゃがしゃと頭や長い髪を拭きながらル・アが声高に話した。まだ興奮しているのだろう、ル・アの右にいた沙射は思わず左耳を押さえた。昨日の、庭での食事をしながら喋っていた時にも、どんどん声が大きくなって行ったけれど、今の声はその比ではない。城門まで聞こえそうだ。
「……この響いているの、俺の声か?」
 この廊下で喋ったことが無かったらしい。大理石の回廊に、キンキンと自分の声が響いた。それに、ル・ア自身もビクッ、と足を止めてまで驚いている。辺りの回廊に部屋から人がたくさん駆け出してきた。何かの非常事態だと焦ったのだろう。
「すまぬ! うっかり大声で喋っただけだ。何も危険は無い。仕事に戻ってくれ」
 出てきた役人達を、ル・アが手を上げて散らした。
「今は確かに大声を出したな……室内で出すとこうなるのだった……忘れていた……」
 とたんに小声になったル・アに、沙射が安堵の息をついてル・アを見上げる。
「この王宮に来た最初の頃に、こうなって驚いた。他の戦士達も、室内で叫んでみな、反響が凄いのを恐れて、二度と大声を出していない。忘れていたな……」
 何度でも繰り返しそうなものだ、キラ・シの戦士達は思いのほか行儀が良いではないか、と沙射は見直した。
「反響する声は、気持ち悪い。地の神に絞め殺されそうだ。木霊は良いが、声を反響させるのは禁忌に近い」
 また、ル・アがわからないことを言っている。
「声を反響させるのが禁忌……とは?」
「洞窟で大声を出すと声が反響する。地の神が、煩いと怒って人の声を何度も繰り返し、方向感覚をなくさせて命を奪おうとしているシルシだ」
「……地の神が、怒る……のですか?」
「神は怒る。よく怒る。怒ってすぐに人を殺す。だから、神に怒られないように、神が怒るようなことは一切しない。それが山で生きていく大前提だ。この建物の中で喋ると、たまに声が響くから………地の神がいつ怒るかと肝が冷える」
 目尻を引きつらせて青い顔をしているル・ア。鍛練の興奮は冷めてしまったらしい。
 石の建物に声が反響することなど、当然のことだ。鬼とも言われるキラ・シの戦士達が、声が反響することが怖いなどと。意外過ぎて、沙射は笑うこともできずに息を呑んだ。
 沙射は『洞窟』というものを知らない。文献の上では、山に開いた横穴だとわかってはいるが、そこで声が響くとか地の神がどうのというのは当然わからない。
 沙射が『声が反響する』ことを知っているのは建物の中だけだ。勿論、そこに神などいないし、大陸の人間で、建物で声が響くことを恐れる者はいないだろう。
 キラ・シの倣いの中にはこのような、大陸からすれば意味不明のものがたくさんありそうだ。
 ル・アはもう、その話題に興味が無くなったのか、今喋ると声が反響するからか、黙って乱暴に髪や体を拭いている。
「着替えておくからゆっくり来てくれ。ついて来なくていい。部屋で待ってる! 食事をしよう」
 沙射の被りを首に巻き付けたまま、ル・アは早足で行こうとして、拭くものをル・アに渡そうとした女官に足を止めた。その女官の側でクン、と鼻を鳴らして女官の顔を見、ややあって沙射を振り返り、また女官を見た。
「お前、名前は?」
「一納と申します」
 女官の言葉を聞いて、なおも沙射を振り返り、ル・アは廊下を走って行った。
 ああ、もしかして、ル王子はこの女官と子作りしたいのでは? 昨日の食事の時も?
 ようやく沙射はそのことに気付いた。
 一納という女官が、沙射の肩に落ちていたのだろう埃を払ってくれる。その時に沙射も少し匂いを嗅いでみたけれど、他の女官と何が違うのかはわからなかった。
 沙射は性教育をされてはいなかったけれど、麻美にその系の質問をしたことも無いので、変なごまかしもされていない。卵から産まれるとか、木の股から産まれるとか、橋の下から拾ってきたとか、そういうことは逆に知らないのだ。
 女性がどういうふうに出産をするのか、文献の上では知っていた。『子作り』と言われると、文字の上ではわかっている。だが、詳細に何をどうするのかは知識としても持ってはいない。春画のたぐいは、黒帝から送られた書簡の中には無かったからだ。
 その日の夜、ル・アは一納という女官を部屋に呼んだが、それは沙射の与り知らぬことであった。
 

   □ 不味い


 声が響くのが嫌だからか、王都王城の庭に卓を出して、ル・アはよく食事をした。
 いつも沙射を前にして、美しい庭を眺めていたのだ。
 鳥が卓に留まれば、細かくした米などをついばませていた。
 その後、沙射に質問しながら庭を歩く。
 手に届く所の花を手折り、その香りを胸いっぱいに吸い込んで微笑んで、いた。
 手折った花はいつもそのまま食べてしまう。最初にされた時、沙射はとても驚いた。
「山でも、お花は召し上がってらしたのですか?」
「食べた。こんな大きな花は山には無い。こんな大きな花より小さな花の方が蜜が多くて美味いな……これは、不味くて驚いた」
 そう言いながらも、やはり手折った花を食べている。
 部屋でもたまに、ル・アは花瓶に挿してある花を食べていた。どうやら花の蜜が好きらしい。
「蜜を嫌うものはいないだろう」
 花をくわえたまま、書き物をしたまま、ル・アは沙射を見上げてそう言っていた。
「山では、甘いものは花の蜜と、蜂蜜と、栗ぐらいだ。大陸で言う、貴重品だ」
「桃は無かったのですか?」
 沙射としては、一番甘い果物ならば桃を勧めたい。
「大陸のような大きな桃は無い。果実は総じてよくよく熟れなければ酸っぱい。甘くなった頃には鳥に先を取られていことが多いな。朝一番で桃の木に走って行ければ食べられるが……俺より先にサル・シュがいつも食べてしまっていた……。好き嫌いで言えば好きだが、蜜の甘さは格別だ」
「蜂蜜を取り寄せてはいかがですか?」
「壺の中に蜜がたくさんあるのは嫌だ。あれを舐める気にはならない。蜜は少ないからこそ美味い」
 ムウ、とくちびるを尖らせたル・アに、沙射は笑ってしまう。
「笑うがなっ! 山であれだけの蜜を集めようとしたら、何百年掛かる? それをどうぞ、ドン、と出して来られたら、今までの苦労はなんだったんだろう……と悲しくなるだろうっ!」
 なぜかル・アに熱弁を振るわれて、余計に沙射は笑ってしまった。
「ああ、こういうのが、キラ・シは『貧しい』と言われる所なんだな、というのは、わかった。物凄く、わかった」
「蜂蜜は大陸でも貴重品ですよ?」
「あれだけ壺にたくさん溜めて、信じられるか」
 プン、と鼻をそびやかせるル・ア。まるで小さな子供のよう。沙射はくすくす笑ってしまい、余計にル・アは拗ねた。
「綺麗なものは、好きだ」
 庭で花の香りに顔を寄せながら、ル・アの目が沙射を見つめた。その手が、大きな花を沙射の髪に挿す。
「大陸では、花はこういうふうに使うらしいな。あなたの服と同じ色だ。似合っている」
 今日の沙射は、薄紫の薄物を羽織っていた。いつも、庭に出る時にル・アが何かを沙射に掛けてくれる。初めに出た時、沙射が寒がったのを覚えてくれているらしい。
「……違いますよ……」
「そうか? 『鎮季物語』で、愛する者の髪に花を差す男の話があった。美しさを讃える一つの方法だろう?」
 『鎮季物語』というのは、鎮季の国で代々書き継がれている長編の物語だ。時事切々と、その時の風俗を現した恋物語や、戦争や政争が描かれている。特に、戦争によって引き裂かれた恋人達の悲劇などに、人気があるようだ。
「それは、男性が女性の髪に挿したのでしょう? わたくしは男ですから、その例には当たりませぬよ」
「男同士でも、愛する者の髪に挿していたぞ。一二巻の三章で」
 確かに、そんな記述があったな、と沙射も思い出した。
「東南は、そういうこだわりの無い地方です。普通は違いますよ」
「普通? キラ・シが大陸にいることは普通か?」
 ル・アは笑う。
 自分達の存在がすでに普通ではない。だから『普通』にこだわる必要も感じない。そういうことだろう。元々、キラ・シは『強ければ何をしても良い』という風潮があるようだ。その上で、男性同士の恋愛が通常ならば、それこそ沙射に愛を囁くことも異常ではない。
 だが沙射にとっては違うのだ。
 ル・アがもう一輪、花を折り取って沙射に渡す。
「ここに差してくれ」
 自分の髪を指さして、ル・アが顔を寄せてきた。
 濡れた黒い瞳があだめかしくて、沙射はふと、泣きそうになる。
 ル・アの髪はまっすぐだから、普通に差しては花が落ちてしまうだろう。耳に引っ掛けるように差してみた。紫木蓮が、ル・アの肌をより白く見せる。
「揃いだな」
 ル・アが太陽のように微笑んだ。沙射から顔を離し、隣に並んで沙射の背中に手を当てた。強制力は無いその掌の熱に、沙射はうっとりする。ル・アが歩き出したので、沙射も歩いた。
「花にこんな使い方があるなんて、知らなかった。髪に挿しているだけなのに、なぜ気分が浮かれるのだろうな」
「わたくしも……知りませんでした……」
「そうなのか? あなたでも、知らないことがあるのだな」
 笑顔で見つめ下ろされて、今度は沙射が拗ねる番だ。
「知らないことの方が多いですよ。私が知っているのは、書物から読み取れることだけです」
 幽閉されていたのですから。
 沙射は声には出さなかったが、心では確実に呟いていた。
 幽閉されていたことを辛いと感じたことは無い。
 けれど、幽閉されていなければ、もっとル・アに教えて上げられることがあったのかと考えると口惜しい。
 もっと、もっとル・アが喜ぶことを教えて上げたい。もっともっとル・アに笑って欲しい。
「そうだな……だが、書の量は並大抵ではないだろう? 疑問をほとんどすべて解いてくれた。そんな人はあなただけだ。偉大なる人だよ、あなたは。沙射皇子」
 ル・アは左から沙射を見つめているのに、沙射の右肩でル・アの右手が沙射の髪をいじる。
 体が二つに裂かれてしまいそうで、沙射は目を閉じた。
 そのくちびるに、ふわり、と熱。
 目を開けると、黒い、瞳。
 優しい、瞳。
「花の愛し方を、あなたは知っているよな?」
「そう……ですね…………」
 麻美に持ってこられた花は、部屋の中に飾られていた。野の花だが、美しかった。その花が咲いている所を、沙射は見たことが無いけれど。
「俺は、知らない」
 睫毛の触れ合う所で微笑みながら、ル・アの指が沙射の髪をくるくると指に巻き付ける。
「花の愛し方を、俺は、知らない」
 ル・アがまばたきする間も、沙射は瞳が離せなくて彼を見上げていた。
「教えて、くれるな?」
「……はい……」
 他に、なんの答えがあっただろう。
「人の愛し方を、あなたは、知らないよな?」
 沙射は、ただ、ル・アを見つめるばかり。
「…………知りたい……?」
 他に、なんの答えがあっただろう。
「あっ……」
 ル・アのくちびるが沙射の返事を奪った。
 長い腕が細い腰を抱き締め、柔らかくくちびるをくちびるで噛んで、見つめて、舐めて、息を交わして、見つめて……重なった。
 ル・アのくちびるが触れるたび、沙射は意識が薄くなっていく。息ができなくて苦しい筈なのに、その苦痛が、白熱の炎となって体を燃え上がらせて行った。
「愛してる……沙射…………」
 ル・アの爽やかな声に、沙射は、溶けた。
「言って、沙射…………あなたを愛してる、と…………あなたのこのくちびるで…………言ってくれ……?」
「あ……」
 今、俺のために死んでくれ、と言われても、死ねただろう。
 沙射は、ル・アを見つめて、囁いた。
 否、囁こうとした。
『ル・ビアっ! どこにいる!』
「ひっ……ぃっ……」
 まるで雷が落ちたかのような怒号に、沙射が跳び上がった。
『どうして……』
 ル・アが、沙射の頭の上で、キラ・シ語を呟く。歯を軋る音が、沙射にも聞こえた。
『ここだ!』
 沙射の腰を抱き締めたまま、ル・アが叫ぶ。その声にも、沙射は驚いて腰を抜かした。
 とにかく、キラ・シの戦士の出す大声と言うのは桁違いなのだ。元々ル・アのくちびるで、立っているのか座っているのかもわかってはいなかったけれど、今は完全に足が立っていない。先程はル・アの腕を温かく感じていたのに、沙射の体重を支えるその腕に変な荷重が掛かり、引っ掛かっている所に熱い痛さを覚えた。
 沙射が逃げようとしているのを、ル・アがつなぎ止めようとしているから、無理な力が掛かっているのだ。
 青ざめている沙射に溜め息をついて、ル・アは手を離した。自分が肩に掛けていた織物を下に敷いて、そこに沙射を座らせる。走って来たリョウ・カの元に歩み寄り、二人で沙射に背を向けて何かを話していた。リョウ・カが帛を持っていたので、かなり込み入った話をしているようだ。元々、リョウ・カとル・アが喋る時はキラ・シ語なので、沙射にはわからない。
 納得したようなリョウ・カを見て、ル・アは小さく溜め息をつく。
『頼むから、これぐらいのことはそちらで処理してくれ』
 ル・アの呟きに、リョウ・カが肩を竦めて見せた。
『ずっと部屋にいてくれれば、すぐに話は終わったんだ』
 リョウ・カが不服そうに眉を寄せる。ル・アはその肩を抱き寄せて顔を寄せた。
『サシャと一緒に居る所を、いつも邪魔しに来ていないか?』
 キラ・シ語には『皇子』という言葉が無いので、名前は誰でも呼び捨てになる。
『サシャがいるのか? どこに?』
 元々、ル・アが沙射と二人きりになりたくて茂みに歩いて来たのだ。今日の政務は午前中で落ち着いたからだった。羅季では食事時間をはずして商談などを勧めるので、食後は一番暇な筈だった。
 実際に、リョウ・カの立ち位置からは沙射は見えない。首を延ばして沙射を見つけたリョウ・カの視線を遮るように、ル・アが立ちふさがる。
『そらぞらしい……』
『いや……知らんよ、というか……いつも一緒だろう。いちいち気にはしておらんよ。サシャが来る前もこんなんだっただろう』
 鍛練をしていても、書き物をしていても、リョウ・カが帛や竹簡を持ってル・アを探し回ることは日に何度もあった。確かに、今に始まったことではない。
『……………そうだな……言いがかりをつけて悪かった』
 自分が悪くない、とル・アに認めさせて、リョウ・カは二度頷いた。
『部屋を空ける時は、どこに行くのかキル・シュに言っておいてくれ。ル・ビアにしかできないことが多過ぎるのだからな』
『…………わかった……』
 キラ・シ礼をしてリョウ・カが歩いていくのを見送り、ル・アは天に溜め息をついた。ぐしゃぐしゃと髪をかき回し、爪先で土をぐしぐし掘り返す。
 沙射はそんな二人をずっと見つめていた。
 大声に驚いたのは一瞬だったのだ。
 ル・アが離れた瞬間、引き止めたくて仕方が無かった。
 自分の怖がりさ加減がいやになる。あの声の大きさに慣れていれば、言えたのに。
 あなたを愛しています、と……
 こうなると、ル・アはもう、今日は仕掛けては来ない。沙射の心は宙ぶらりんのままだ。
 それでも、慣れられない。この一八年、声を荒らげることなど無い麻美しか、傍にいなかったのだ。皿を置く、カタリという音でも耳障りな、『静かな』生活、だった。
 ル・アが大きく腕を動かすだけでも、沙射は心のどこかで構えていて、疲れるのだ。
 大体が、視界に二人以上の人間がいるのすら、まだ慣れない。ル・アと一対一で喋ることはできても、そこにリョウ・カが入ってくると、どちらの話を聞けば良いのかもわからなくなる。女官がよく、三人や四人で固まって喋っているのを見るが、器用なものだと毎回感心したものだ。
「もう……良いのですか?」
 歩いてきたル・アに、沙射は問い掛ける。
「また何かあれば呼びに来るだろう。まぁ、そろそろ誰かが来るだろうが……呼ぶまでは良かろう」
 ル・アが親指で部屋の方を指さした。先程はいなかった女官が控えている。リョウ・カが置いて行ったらしい。
 ル・アは、二人きりの時しか沙射に迫っては来ない。それはキラ・シの礼だそうだ。受けて側になる男を守るための、礼、だそうだ。
 ル・アに手を出されて、沙射も手を出した。ゆっくりと立たせてくれる。沙射の尻に敷いていた布を、静かに寄って来ていた女官が取り上げて、後ろの女官に渡した。彼女が持っていた織物をル・アに捧げ持つ。
 また、ル・アは溜め息をついてその肩掛けを受け取り、今度は沙射の肩に掛けた。布の下敷きになった金糸を、軽く指先ではじく様に上に引き上げる。顔は常に女官から背けていた。
 ル・アは、女性にこういう介添えをされるのを好かないようだった。キルシュという小姓が手取り足取り何かを渡すのは気にしないのに、女官だと嫌がる。女性を見ると押し倒したくなるので、傍にいて欲しくないらしい。
 木に咲いている花を、今度はもぎらず、ル・アは手をかざした。
「教えて欲しい」
 ル・アが、沙射を見ずに呟く。
「この花は、どのように美しい?」
 沙射は目を白黒させた。
「先程……それをわかっていて、あのようなことをされたのでは、ないのですか?」
「本の受け売りだ。意味はわかってはいない」
「意味もわからずに、あんなことを、なさったのですか?」
「してみたかったんだ」
 少しだけ、ル・アが拗ねた様にくちびるを尖らせた。
 『してみたい人』にとっては『してみたかった』というのは、とても正当な理由なのだ。問いただしても仕方がない。
「山にはこんな大きな花は咲かない。花というのは小指の爪よりも小さいのが常だ。大きいのは椿ぐらいだが、花をもいでは実がならないから、花を摘むことなど無い」
「椿ですか? 実を利用されたのですか?」
「実を潰して油をとる。獣油より臭いが無いから、都合が良い」
「都合が良いとは?」
「髪や肌に塗る。さらさらしているから、髪がもつれなくなる」
 だから髪が綺麗なのか、と沙射は納得した。
 キラ・シを初めてみた大陸の人は、驚いてそれどころではないし、キラ・シの獣臭さにまず眉を寄せる。風呂に入る習慣が無いので大体のキラ・シは臭いのだ。だが、王都に入ってからは、女性に勧められたからか、みな風呂を使っているので臭いはそこまででも無くなった。すると、髪の綺麗さが際立ってくるのだ。
 髪は、今日昨日手入れをして美しくなるものではない。キラ・シはただ延ばしっぱなしに見えたのに、あの長い髪がみな艶々している。
 風呂には入らないのに髪の手入れは細かくしていたらしい。
 キラ・シには、筆は無いのに櫛はあるのだ。大陸の櫛は、柘植の木を半月型にして薄くした板に一列の歯を刻む。持ち手は無い。
 キラ・シの櫛は、握りやすい太さの枝先に櫛の歯を何列にも刻んだものだ。個々人で作るらしく、手先の器用さでその歯の密度は違う。ル・アが持っている櫛は、大陸の柘植の櫛より細かく目が詰まっていた。それで毎朝毎晩、椿油を垂らして梳るらしい。ガリ・アから貰ったのだと嬉しげに見せてくれた。キラ・シの戦士と結婚した女に櫛屋がいて、その持ち手のあるキラ・シ櫛が使いやすいので作ってみた所、飛ぶように売れている。キラ・シでも、手先の不器用な男は買っているらしい。
 巷では、キラ・シってのもけっこう文化的なんだな、という噂が広がっていた。キラ・シ紅と木櫛、そしてキラ・シといえば真っ先に思いつく鉄刀。大陸に無いものをこれだけ持ち込んだのだ。その部分だけ見れば感心するだろう。鉄刀と乗馬に関しては、未だ大陸の誰も真似できてはいない。
 まず、大陸には鉄が見つかっていないのだ。
「椿油は、大陸でも髪油として使います」
 沙射はル・アの髪に差した木蓮を見つめて口にした。話題などどうでもいい。ただ、ル・アを見ていたいだけ。けれど、直視する心が無い。
 ル・アがまぶし過ぎて、見つめていられないのだ。
「ああ、そうらしいな。場所は違えど、していることは一緒なんだ。だが、椿の花を、綺麗とか綺麗ではないとかは、考えたことが無かった……葉の緑、木の茶色、岩の灰色。それらしかない山の中に、赤や白になっているから目を引くことがあるが、それだけだ」
 ル・アが手にしている花は椿ではない。紫木蓮だ。花弁が大きく、かぐわしい香りを放っている。元より、この季節、椿は終わった。
「教えてくれ、この花は、どう美しい?」
「鳥が飛び立つ様に似ていると言われます」
「こんな鳥が居るのか? なんの鳥だ?」
「そういう、この鳥、という厳密なものではありません」
「そうか。『譬え』というものか? 文献に良く出てくる。月を皿と言ったり、鏡と言ったりする、面倒臭い表現」
「そうですね」
 キラ・シの直情径行がそのまま出ている表現だと、沙射は微笑ましい。ついでに言うと、その『月』自体も、『恋しい人』の隠喩の場合が多い。
羅季の詩では、恋人の名前や性別などを直接述べることは、下品で不適当とされている。元々が、愛だの恋だのとおおっぴらにするのは恥とされていた。だから、そういう隠喩が流行ったのだろう。鎮季では恋愛は自由なので、このような暗い表現はあまり無い。だからこそル・アのように、隠喩が苦手だと鎮季の詩や物語を好む傾向がある。
 数百年戦争をせず、大陸中の王族豪族に賂を渡して栄耀栄華を極めた大鎮季。その文化には『御法度』というものは無い。一番売れるのは身分の差に引き裂かれて心中をする恋人達や、病で片方が死ぬ話だ。そんなものは逆に王都では売れない。王都で売れるものは、同じ身分の差物語でも、男が女を攫って、遠い地で結婚するような話だ。日常的に戦争で人が死ぬ地方では、恋愛でまで人死にを読みたくないのだろう。『鎮季物語』は鎮季の都で大陸全土の恋愛話を集めてあるので、種々雑多な物語がある。髪に花を挿すのも、都に花が多い鎮季ではよくあるので、それだけでは話を特定できない。
「それで?」
「……はい?」
 ル・アに問い返されて、沙射は彼を見上げた。
「鳥の飛び立つ様に似ていて、だからどうした? 何が美しい?」
 えっと……と、久しぶりに沙射は惑うた。
「こんなに大きな花はあまり無いですし」
「そうだな、それで? どの部分がどう美しい?」
「……色とか……」
「紫色の花は他にもあるだろう。躑躅とか、桔梗とか、赤や黄色が多いから珍しいといえば珍しいが、……」
 沙射がとても困った顔をしたのをル・アも気付いたらしい。
「珍しい、ということが『美しい』と言われる原因の一つになるのか?」
「……そう、ですね……はい……」
 ル・アからそう振って貰って、沙射はようやくこの泥沼から抜け出せた。相変わらず、ル・アの疑問は答えにくい。解りやすい疑問はすでに、他の人に応えて貰っているからだろう。その人が応えてくれなかった疑問だけを沙射にぶつけているから、沙射もわからない。
 元々、『美』というのは主観であって、国が変われば美も変わるものだ。それは、ずっと一緒にいた麻美が、キラ・シの軍人にはもてたけれど、自分は不細工だと言われて育った、ということで沙射も実感している。大陸では不細工の部類に入る麻美が、キラ・シでは美人に見えるのだ。
 沙射はキラ・シの軍人達に嫌われていた。だから、ル・アに美しいと言われても、なんだか信用しきれないのだ。
 勿論、ル・アが嘘をついているとは言わないのだけれど、自分が美しいということが、沙射には理解できない。沙射こそ、あの美女面の顔、つまりはル・アの顔が一番美しいと感じるのだから。それと自分の顔は違い過ぎる。
「キラ・シとて、大陸人の人数からすれば少ない。美しいの一つに入るのか?」
 ル・アは、なおもその疑問を抱えていた。
「失礼ながら、ル王子以外は入らないと思います」
「父上もか?」
「ガリ王帝は、『素晴らしい』とか『偉大』では在るでしょう。たくましくて美々しいかただとは言えますが、一般的には『美しい』というのとは違うと思います」
「俺が入って父上が入らないのは解せぬ。父上が一番美しい。一番強いんだぞ。何に置いても、父上が二番以下というのは嘘だ」
 ぷん、と。またル・アは鼻をそびやかせる。
「基本的に、大陸では女性と景色、物にしか『美しい』という言葉は使いません」
「それは男が論外なのか、女とモノが同列なのか、どちらだ」
 そう来ましたか……
「美しいという言葉に対しては、男性が論外なのだと思います」
「それは文化の違いだな。キラでは、女に美しいという言葉は使わない。それの逆だと考えれば納得はできる」
「女性を、美しいと、思われないのですか?」
「女は美しいとか醜いとか、そういう対象ではない。いなくては困る。美醜など、考えたことも無い。女の顔は、見分けがつかない」
「名花嬢や一納嬢は大陸的美人だと思いましたが?」
「……あ? ………………ああ。ああ……そうか、その二人な……。別に顔は見ていないから、知らん。次に会ってもわからない」
「え?」
 沙射の声に、責める色が入ったことを気付いたらしい。ル・アがビクッ、と肩を竦める。
 沙射は麻美以外に人づきあいをこれまで一度もしたことが無いが、毎日会うキラ・シの戦士などは顔を覚えていた。それを、一晩伴にした女性の顔を覚えていないというのは、どういうことか理解できない。
「……子を連れてくれば、その子と女の顔を見比べることはするが……………」
「では、何で女性を見分けていらっしゃるのですか?」
「匂いだ」
 また、沙射のわからない分野に話が飛んでしまいそうだった。
「孕み月の女は、その匂いがする。それしか……無い。………女は女だっ! 顔なんてどうだっていいだろうっ!」
 これは博愛精神の言葉ととって良いのでしょうか? 沙射はル・アをジッと見上げる。
 ル・アは、居住まい悪そうに木蓮の花ももぎり取った。鼻先にかざして、忘れていたのか、その匂いの強さにビクッと肩を震わせる。それでも、むしゃむしゃとそれを食べてしまった。やはり不味そうな顔をしている。
「その花は、美味しいのですか?」
「不味い」
「美味しくないとご存じなのに、なぜ召し上がるのですか?」
「とったものは食べなければならんだろう。俺がとらなければ実をならしていたのだから、それができないのならば腹を膨らせないと、咲いた意味が無い」
 ル・アの考え方が、沙射にはわからなかった。
 それでは王宮中に飾ってある花は、全部誰かが食べなければならないことになる。そんな考えは大陸に無い。
「花を愛でる……などという心情は、こちらに来て初めて知った。山では、花はたんに花で、もう雪が降らないという目印でしか無い」
「花を……美しいと、まったく思われなかった、ということですか?」
「ああ……花なんて目に入ってはいなかった。いや、俺は花が咲くと景色が明るくなって良いと気付いてはいたが、そんなものはなんの役にも立たないからな。この花が咲いたらこの獣が出てくる、この花が散ったらこの獣が出てくる。あそこの山の、赤花の群生の傍の洞窟……とか、その目安でしか無い。景色を愛でる心は、キラ・シには、無いな。多分、他の部族にも無いだろう」
「では、何を美しいと思われたのですか?」
「男……かな。子供、でもあるが」
「男性だけですか?」
「そう……だな」
「一面の雪景色や、秋に山が錦に色づいたりなどは?」
「雪は身を凍らせる。恐怖の象徴だ。山が赤くなってきたら、狩りを急がなければならない合図。初雪は獣の干し溜めを完璧にしなければならない。怠れば、雪の中、死ぬしか無い。それに、年に一度の闘技大会がある。とにかくずっと鍛練し続けていた。
 綺麗……などとは、思わなかったな……
 一面の雪景色などは、神の顕現ではあるが、愛でるものではなかった。ただただ、恐怖するしか無い。吹雪けば家を出ることすらできない。肉がつきれば家の中でも飢え死ぬ。だからと言って、吹雪いているのに狩りに出れば帰って来られない。長く吹雪けば、一晩中でも雪かきをし続ける。そうしなければ、家が雪で埋まって息ができず、一両日で死ぬ。面倒臭がって、干し肉を持って木の上に登る者もいるが。家が埋もれれば、もう、温かい所で眠ることすらできなくなる。
 滝が近くにあったから、そこに雪を流し続けるんだ。村中総出で一晩中……一日中……そのための食料は、秋までに溜めておかないと、動くことすらできなくなる。熊のように、人は冬籠もりができないからな。
 小さな子供が突風に吹き飛ばされたり、それを探しに男達が駆け回ったり……飛んで来た枯れ木で頭が割れたり……刺さったり、怪我をしたり、する。それらを避けながらだから、風に向かって雪を掻き続ける。
 それを乗り越えられない者は、死ぬ」
 まだ花を見上げながら、ル・アは呟いた。
 沙射はいつも思う。ル・アが『死』を軽々しく口に出すことが、最初は不愉快だった。けれど、それは死を軽んじているのではなく、死が常に傍にあるからだ。それに気付くまで、ル・アの性格をおかしく考えてしまっていた。
 『死』というのは、大陸では忌み詞の一つなので、何かに言い換えて口にするのが常なのだ。だが、キラ・シには『譬え』というものが無いらしい。暗喩隠喩は一切ないし、理解できないようだ。だから、『死ぬ』とか『殺す』とかを日常会話に出してくる。そのたびに沙射は体が震えてしまうのだ。
 沙射でさえ、身内が全員死んだ。
 だが、それは沙射の物心着いていない時だから、実感などしていない。そうなると、沙射は『死』を周りで見たことは一度も無いのだった。
「ル王子の周りで、大事などなたか御落命なさったことがおありなのですか?」
「たくさんいる。戦争をしたんだから」
 沙射は自分の言葉の不手際に息を呑んだ。後悔した沙射とは違い、ル・アは別段何も感じていないようだ。死が近いだけあって、ことさら重要視もしていないように見える。
「キラ・シより大陸人の方がたくさん死んだ。毎日毎日、何百人何千人と、死んだ。穴を掘って埋めるのも大変で、最後には臭い出す前に陣を移動させるしか無かった。目の前で死んだ者の数、と言われれば……何千人、何万人……だろうな。死にたくて死んだ者など、一人もいなかっただろう」
 なぜ、キラ・シが強いとわかっているのに掛かってくるのか、わからん……とル・アが呟く。
「知らない病に伏して、血を吐きながら倒れた戦士達がいた。大陸人の誰より強くても、病には勝てなかった。全員が、病で死ぬのを嫌がって、父上が、見送った。俺も、死にかけたことがある。毒矢で射られて……」
 川べりで流行り病に倒れた、とル・アが言っていたことを沙射は思い出す。
「俺を呪って死んだ人がいた。
 俺の目の前で死んだ愛しい人が、いた。もう狂っていて、俺のことも、わからなかった、けれど……」
『目の前で人が狂うのは見たくない』とル・アが言っていたことを、沙射は脳裏に浮かべてくちびるを噛みしめる。また、ル・アは花をちぎり、食べてから、不味い、と呟いた。
「雪……というのは、一晩でどのぐらい積もるのですか?」
 今回はどうにか、沙射の方から話題を提供できた。ル・アがちらりと沙射を見て、微笑んでくれる。ありがとう、とくちびるだけで囁かれた。自分の言葉で心が沈んでしまっていたらしい。
「身の丈二つ以上積む」
 ル・アが、自分の頭に手を置いた。そしてその手をもっと上に差し上げ、傍にあった木の中程を指さす。それは沙射の四倍ほどあった。
「三つ積むこともある。そうなると、裸で雪かきをしても、寒さを感じない。早く雪をのけないと、今どこにいるのかすら、わからなくなる」
「わたくしでは、すぐに埋もれてしまいますね……」
「……俺がいる、大丈夫だ」
 チュッ、と前髪にくちびるで音を立てられ、沙射はなんとなく照れた。
「村の東に一本杉がある。そこから自分の家の位置を見て、掘り続けるしか無い。中央から端に雪をのけるから、端の家ほど雪かきは大変になる。飛んでくる木切れや小石を避けながらの雪かきだから、下手な奴は血だらけになるしな。サル・シュは、俺を背負っているのに、踊るように人の家まで掻いていた。
 キラ・シの山は温泉が沸く。地面が熱いから、雪は簡単には積もらないが、一気に降られると積む。一番危険なのは、たくさん積んだときだ。地熱で地面近くの雪は溶けているのに、その上に積んでいるから、下に空洞がある。うっかり踏み抜けば、地面まで落ちて足を折る。
 雪は降らなくてもやっかいだ。雪がもう降らない時期になると、今度は解け出す。身の丈三つ積んだ雪が解けるんだ。村どころか、山中の雪を村の位置より下に落としておかないと、村が沈む。矢流も怖いが、雪崩も怖い。そのために村は山の上にあるが、父上が若い頃に村が流されたこともあるらしい」
「矢流や雪崩というのは、どういうものなのですか?」
「キラ・シの村は、大きな山の中腹のでっぱりにある。山と村の間には滝や川があって、普通の雪解けならば、村まで水は来ない。村の周りでは、村の位置が一番高いからな。だが、多く雪が降った時は、雪解け水が矢のように山肌を駆け下りてくる。滝や川を越えて、村まで来るんだ。
 あなたぐらいの太さの木だと、根こそぎ吹っ飛ばされる。勿論、人も吹っ飛ばされて山をたたき落とされる。その隙間にさっさと木を植え戻さないと、その後数年から十数年、同じような矢流が起きる。大仕事だ。
 それが雪なのが雪崩だ。矢流より広い幅で雪の塊が崖崩れのように滑り落ちてくる。リョウ・カぐらいの太さの木でもなぎ倒される」
「とても大変なことではありませんか?」
「とても大変なことでありますよ」
 雪は怖いよ……とル・アは呟いた。
「大陸の建築技術は凄い。キラには『板』を作る技術が無い。瓦も無い。鍛造はできても鋳造はしない。
 家は地面に穴を掘って、上に屋根を被せるだけだから、少し雪が降れば埋もれるし、多少降って埋もれても、潰れはしないが、出入りができなくなる。
 使っていない家に、サル・シュが何かを取りに入ったあとで雪が積んだ(降り続けた)ことがあった。入り口を蹴り開けたら家自体が潰れてな、サル・シュは咄嗟に跳び出したから助かったが、あれで下敷きになれば、死んでいただろうな。
 雪かきでも、下手すれば雪に埋もれたり、流されたりして死ぬ。雪は恐ろしいものだ。
 一面白い、というのは、死の象徴だ。雪の影で黒くなっている部分が、雪が積もっていない所。そこにしか生は無い。だからこそ、花が咲くと、もう雪が降らないという目印だから、一安心するが、それを美しいとか、綺麗だとかは……聞いたことが無いな。
 『雪の下』が咲けば、矢流を警戒しなければならない。崩れそうな雪棚を崩すのもその時期が多くなる」
「雪棚を崩す、とはどういうことなのですか?」
「雪の量が凄いから、かろうじてでも掻きだせるのは村だけだ。山には無尽蔵に雪が降り積もる。降り積もれば巨大雪崩が起きる。雪崩が起きそうな場所を雪棚と言う。雪崩はだいたい似たところで起きるからな。誰もいないのを確認して、雪棚は小さな時に崩しておく。狩りの時に自然雪崩に遭うことを怯えるより、人の手で雪崩を起こせば危険は回避できるからな。そういう見回りが多くなるのも『雪の下』が咲く前後だ。勿論、雪が積もれば、冬中見回りはするがな。食料は秋に溜めてあるから、冬はとにかく雪の対処に奔走する。夏より忙しいかもしれない」
「雪棚というのは、そんなに簡単に崩れるものなのですか?」
「簡単ではない、だろう。サル・シュが雪棚の上で踊ったら落ちたが、一歩間違えれば一緒に落ちる。常ならば副族長の仕事らしい」
「……サル・シュ将軍は、王子の育ての親という方ですよね? 副族長だったのですか?」
「前年の雪崩落としで、流されて死んだから、誰もしたがらなくて、見かねてサル・シュが替わったらしい」
「村はそういうのが来ない所にあるのでしょう?」
「そうだ。だが、村が上にあると言うことは、狩りは下に行く。自分が流される危険は常につきまとう。
 それに、大きな雪崩が起きると、木が全部持って行かれてしまう。すると、次の冬もまたすべりやすくなるし、そこには実りが無くなる。第一、落ちる音で目が覚めるほど驚くしな……音が怖い。雪崩は雪の神の怒りでもある。大きく怒られるよりは、小さく何度も怒られた方が被害は少ない。
 だから、とにかく、小さなうちに雪棚は落としておくんだ。そのために冬は山を走り回る。そういう細かいことをして来たから、キラ・シの山は他の部族の山より実りが豊かだと言われている。他では矢流のあとも木を植えたりはしないらしい。キラ・シでは、山枯れが起こりそうな木があったら、すぐに切って捨てるのにな」
「山枯れというのは、どういうものなのですか?」
「虫か、病かで木が枯れる。それは隣の木に移るから、辺り一帯の木が枯れる。他の部族の山で見たことがあるが、物凄く……物凄くたくさんの木が枯れる。それだけたくさんの木が枯れてしまうと、もう人の手ではどうにもできない。どんどん周りの木が枯れていくのを、指を銜えてみているだけだ。それでもキラ・シなら、生きている木との境の枯れ木を切って燃やしたりするんだろうが、その部族は何もしなかったから、山二つが枯れたな。元々小さな部族だったから、他の山に獣を狩りに出て隣の部族を怒らせ、攻め滅ぼされた。二代前のことらしいが、まだ山は枯れたままだ。何かをして山の神を怒らせたのだろうと言われている。
 木が枯れると実りが無くなり、獣もいなくなる。獣がいなくなると人が生きていくのは難しくなる。だから、変な時期に枯れた木はさっさと掘り起こして燃やすんだ。辺り一帯の土も掘り起こして、村の下の沢から流す。跡には、隣の木の子供を植えておく。獣を追うより、枯れ木の報告が優先されるからな。重大事だ。
 隣の部族が来た時に言っていたらしい。キラ・シの森は信じられないほど豊かだ、と驚愕していた。四〇〇年前の族長が始めた森の手入れらしい」
 村で武闘大会をするようになったのも、その頃からだ、とル・アは言っていた。二百年ぐらいごとに、知恵の高い族長が出るらしい。今回の二百年目は当然、ガリ・アなのだろう。
「サル・シュは熊とやりあってる時に雪崩が起こって、熊を流されて、飯を山の神にとられたっ! 捧げ物が少ないらしいぞっ! と喚いていた。そこで自分が流れないのがサル・シュだ、と村中が彼を褒め讃えていた。それぐらい、雪崩で死ぬ戦士は多い。
 『雪の下』のあとに、『風の花』が咲く。その頃に、温かいが突風の『雪食い』が来る(吹く)から、雪は一気に解けるし吹き飛ばされる。屋根の重石を確認しておかないと、夜中に屋根が吹き飛ばされるし、矢流の警戒が必要だ。
 次に『紅花』が咲く。そうなると冬眠していた熊が出てくる。子供が無警戒に熊と出会えば、食べられる。
 『赤花』の木に花が開けば、天湖の氷が溶けて流れるから、鉄の切り出しと、天湖の警戒が始まる」
「自然現象のすべてが、次にすることへの合図でしか無いのですね」
「そうだな……景色を綺麗だと、見ることは無かったな……そう見ていた者がいても、口には出せなかっただろう。意味が無いから」
「意味が、無い、とは?」
「花を綺麗だと言って、獣がとれる訳ではない。刀の扱いが巧くなる訳でもない。なんの役にも立たない。そういうことをしたり、口に出したりする者は頭がおかしいと、子供なら村八分にされる」
「村八分、とは……どういうことですか?」
「葬式と火事以外、村から何も扱われないということだ。まだ狩りも巧くできない子供がそれをされると、生きて行けない」
「なぜ葬儀と火事は別なのですか?」
「火事は消さないと村まで焼ける。死んだら死体の処理をしないと病が沸く。大体は、滝に投げ込むだけらしい」
 村に迷惑が掛かることだけは手を貸す、ということだ。
「大人の場合はどうなのですか?」
「ある程度強ければ許容されるが、変わり者扱いされるのは間違いない」
「花を愛でるだけで、仲間外れにされるのですか?」
「仲間外れではない。結果的には殺されるということだ。まだ弱い子供にそんな余分なことをする自由は無いし、一番の強さでない限り、大人になってもそういうことをしていると、そんなだから弱いんだ、と貶められる。
 どれだけ強くても、戦の時に仲間が助けてくれなければ、余程でないと帰って来られないからな」
「それは、どういうことなのですか?」
「敵がそいつを後ろから狙った時に、味方が教えない」
「……襲われてしまいますよ?」
「そうだ。だから、死ぬ」
 沙射は大きくまばたきをした。
「『変』だと見られるとそうなる。『変』な者が子供を作ると、子供も変になる可能性が高いだろう? それをみんな嫌がるんだ。だが強いから子をなす権利をとってしまうと反対はできない。だから、戦で消そうとする」
「自分の部族の強い人を、戦で見殺しにするのですか?」
「するらしいな。だから、みんな、仲間に『変』だと見られることはしない。それをして許されるのは最盛期の族長だけだ。寿命寸前の族長だと、頭がおかしいと思われて、終わり、だな。
 父上も『山を降りよう』と言い出すのに時間が掛かったと仰っていた。
 子供の頃、人間以外に『綺麗』なんてことを口にしたら、親に殴り倒されて、そういうことを言わなくなるし、そのうち『綺麗』なんてことを思わなくなる。
 俺は、サル・シュがのんびりしてたからか、サル・シュも変わってたからか、擁護されたが……普通はそんなことはされないらしい」
「ル王子は何を綺麗だとお思いだったのですか?」
「キラキラ石と、当時は言っていたが、キラ・シの山には金や水晶がある」
 ル・アは特別な風情もなく口にしたが、沙射は目を見開いた。
「それは、凄いことではないのですか? ……だから、キラ・シには商人がたくさん随従しているのですか?」
「それもあるのかもしれないな。知っている者は少ない筈だが。山ではなんの価値も無いが、ここで価値があるのはもう知っている。……それがキラキラするのが好きで、小さな頃から、川でたくさん集めて家に持ち帰っていた。サル・シュは金の価値を知っていたから、何も言わなかっただけだろう。それを鷲に持たせて何度も送ったから、楽になったと、降りてきた時にリョウ・カに感謝された。山にはあんなもの、ゴロゴロしている」
「その話をどなたかにされましたか?」
「最初の頃、大事な話だと気付かずにしてしまった。取りにいこうとはしているらしいが、ここ数年、誰も到達できていないらしい。だから、サル・シュやリョウ・カや父上に貢ぎ物が堪えない。断っても断っても持ってくるから、そのまま国庫に寄付扱いにしたら持って来なくなった」
 すっきりした、という顔をしたル・アに、沙射は笑っていいのか迷う。商人達の困惑もわかるからだ。
「なぜそのお三方に貢ぎ物があるのですか?」
「キラ・シの村に、今でも帰ることができるのがその三人だけだからだ」
「それは、どういうことですか?」
「キラ・シの山から大陸までは、絶壁を何度か下りたらしい。絶壁というのは、降りることはできても、登ることはできない。登ることができないということは、帰ることもできないということだ」
 ル・アが遠い目をした。
「……それでは、キラ・シの方々のほとんどは、山にお帰りになることはできないのですか?」
「そうだ」
 ル・アは大きく頷いて目を瞑り、開けた。
「その覚悟を持って、父上達は降りて来た。大陸で負ければ、退路は無い。勝ち続けるしか、生き残る術が無かった」
 それは、キラ・シが強かった理由の一つなのだろう。そんな巨大な背水の陣を敷いていたのだ。
「今では、父上とリョウ・カも、もう無理だろう。父上は明らかに、最盛期より弱くなってらっしゃる。今、山に帰ることができるのは、サル・シュだけだろうな。父上とリョウ・カも、以前のように鍛練できていれば帰ることはできただろうが、政務が忙し過ぎて、馬に乗る時間が足りない。夜に、奉山を登ってらっしゃるのを見たことはあるが、毎日では無いようだ」
 奉山と言うのは王都の傍にある高い山だ。王都の北を仰げばどこからでも見える。西鹿毛山脈を西天険、奉山を央天険と呼ぶこともある、絶壁ばかりの一つ山だ。神山と言われるが、崖が急過ぎて、奉納などは麓でする。
 山と言うよりは壁。木もほとんど生えていない岩だけの絶壁は、そのまま王都に倒れ込んできそうだ、と沙射は怖かった。
「奉山は、山道があるのですか?」
「無い」
「山道が無いのに登るのですか?」
「絶壁を登る、というのはそういうことだ。人が簡単に登ることのできる岩壁を絶壁とは言わない」
 沙射はただ、頷いた。
「毎朝、夜明け前に馬で駆け登る。日の出を見て、降りてくる。それから朝の鍛練に加わって、食べて、政務だ。たまに父上やリョウ・カ、サル・シュがいることもある。誰が早く頂上につけるか競争だ。やはりサル・シュが早い。父上やリョウ・カは、途中で降りることが多くなった。馬も、歳をとるしな。最近馬を代替わりさせたから、今の馬は父上にあって無いのかもしれない」
 ル・アが残念そうに溜め息をつく。
 以前は偉大だった父親が、一つとはいえ、自分に体力的に負けるのを見るのは、辛いだろう。
 ル・アは、『自分が勝った』と思っていないのは明白だった。『父が衰えた』と見ている。腕力勝負で無い仕事の父親ならば、『衰え』を実感するのは死ぬ寸前なのに。
 キラ・シは、弱くなれば自分で死ぬ、とル・アが何度も言っていた。ガリ・アも、寿命の前にそうするのならば、毎日ル・アはハラハラしていることだろう。
 まだ普通の生活は十分できるのに、最盛期より弱くなれば自殺するというのは、悲し過ぎる倣いだ。
 それは『強さ』だけを鑑みたものではなく、食料の少ない山では、老人を養うことができないから、というのもあるのではないだろうか。働けなくなって、ろくでなしだと罵られる前にみな死を選ぶ。簡単に言うと、若い者達に気を使い過ぎなのだ。そこまで生きた歴史を、経験を若者達に教える、という仕事があるだろう。
 けれど、その仕組みの中でキラ・シは絶大なる『強さ』を誇ってきたのだ。
 老人がおらず、大人は全員戦士で、戦士は大陸の将軍と似た強さと経験と判断力を持つ。戦争だけに特化した部族だ。キラ・シが強くて当然だった。
 弱くなれば死ぬしかないのだ。死ぬ寸前まで鍛練を欠かすことが無いのも理解できる。鍛練を辞めた時は、死ぬ時。ル・アが、鍛練できなくて焦るのは、キラ・シの『血』なのだろう。
 過酷に、厳し過ぎるキラ・シの倣い。そんな部族では確かに、『生き残ってきた』だけで精鋭になる。
「降りる時にサル・シュが登ってくることがあるから、サル・シュも毎日登っているのかもしれない。他にも、子供が登っているのをよく見る。サル・シュに言われて、鍛練しているらしい。次回の山に戻る時に、連れて行きたいのだろう。道を覚えさせるために。
 ここは平原なのに、あんな山が突然あって、鍛練にはちょうど良い。大陸人は良い所に都を作ったな」
「あの山を『鍛練』で使えるのはキラ・シだけでしょう」
 大陸の誰も、奉山をそんな目では見ていない。そうか? とル・アが微笑んで小首を傾げる。その表情が、綺麗でかわいくて、沙射は目を逸らした。
「サル・シュは将軍で、政務をしていない。日がな一日鍛練をしているから、まだ、毎日強さを増している。サル・シュが父上に反していれば、族長交代劇があったかもしれないな」
「サル将軍はそんなにガリ王帝を尊敬なさっているのですか?」
「尊敬もしているし……恋人でもある。俺の第二の父でもある。父上を追い落とすことはしないだろう。大体、本人が族長を嫌がっている。三番手が責任が無くて楽だと常日頃言っている」
 ガリ王帝の恋人がサル将軍なのですか? という疑問は問えなかった。
 いま一つ、沙射には理解できない。ル・アを産んだ女性を愛した筈のガリ・アが、男性に色気を持っているということが。それはそのままル・アの、女癖の悪さがあるのに、自分を口説いてくることの疑問にもなっている。
 あれだけ毎日女性と夜を過ごしていてなお、なぜ自分を口説いてくるのか。それが沙射にはわかっていない。ただ、口説かれると頭が熱くなって逆らえなくなるのだ。
 ル・アを好いてはいると、思う。
 けれど、『愛』というのが何か、沙射にはわからない。わからないことは、理性がある間は口に出せない。
 ル・アが、なぜその言葉にこだわるのかも、わからない。
 そのまま好きなようにしてくれたら、逆らわないのに……
「銭が尽きた時に、サル・シュと俺とで何度か山に金を取りに帰った。崖登りの巧い奴を二人連れて行ったが、二人はキラ・シの村までもたどり着けなかった。今、必死で奉山を登っている。次は最後まで行けるといいな。
 キラ・シの村からすると、最初の崖が一番大きいんだ。あれを降りた父上は凄いし、ついて下りた戦士達も偉大だ。登れない崖を降りるということは、死を意味するからな。
 とにかく、その時に帰った時の金がまだあるが……今までに無い勢いで減っているから、来年辺り、サル・シュがまた取りに行く必要がある。今年より反乱が頻発すれば……行く暇があるかどうか……」
「山はそんなに遠いのですか?」
「サル・シュと俺の足で、片道二カ月掛かる。部族三位がそれだけの長期にわたって離れるのは、辛い。大陸を進軍している戦の時はサル・シュが抜けても大丈夫だったようだが、その時より今の方が辛い」
「今は戦争をしていませんのに?」
「反乱が二ヶ所で起こると、二ヶ所に戦士達をやらなければならない。戦争は、常に一ヶ所だから、父上、リョウ・カ、サル・シュ、この三人が一人でも居ればどうにかなった。だが、反乱に派兵すると、その箇所箇所で指揮官がいないと話にならない。四ヶ所で反乱が起こって、父上とサル・シュと、他の強い戦士が出払ってしまえば、王都で反乱が起こった時に制圧が難しい。
 リョウ・カや父上は羅季語がわかるから、反乱の首謀を探せるが、サル・シュは羅季語ができないから、首謀を取り逃がすことがある。本人もそれに気付いているから、最近は辺り一帯の男を全部殺してくる。そうなると、その地方で働き手がいなくなって、村放棄、町放棄になりかねない。働き手がいないから、作物もできないし、物資も作れない。その町の税収が減るから、王都への税も減る。
 今は俺がいるから、二ヶ所までの反乱ならば、父上とリョウ・カが出て行くが、三ヶ所になるとサル・シュが出て行かざるをえない。サル・シュでなくても、羅季語がわからない戦士を派遣すれば、首謀を取り逃がさないために、男は全員殺すしか無い。町は潰れる。恨みが残る。またその町で反乱が起こる……そういう所が徐々に増えて来ている。多分、来年は今年より反乱が増える」
 ル・アが大きく、息を吐いた。
「金を取りに行く時間は、無いかもしれない」
「キラ・シの生活では、金は使わないのですか?」
「使わないな。鉄より柔らかい金属は必要ない。しかも重たいしな。戦士はあんなものを持って戦うのは嫌がる。鍋を作っても火に掛けると溶けるらしいし、使いようが無い」
 黄金で鍋を作る……という、その奇想天外な発想に沙射は呻きそうになった。
「装飾に使うことは、なさらなかったのですか?」
「無い。戦士が身を飾るのは自分の手柄だけだ。滅多にとれない白鷲の風切り羽、大熊や大狼の牙や爪。それらを『自分一人で獲った時だけ』、それらを身につける価値がある。仲間と獲ったのならば、それは長老に渡して終わりだ。親の形見で譲り受けたそれらは、紅花で赤く染める。白い牙は己の名誉だ。
 自分の強さの証し、自分の身を守るもの。それ以外は身につけても意味が無い。金とか水晶とかは『拾う』ものだ。強さに関係ない。そういうものは、価値が無い。
 価値があるのは、武器になる金属や硬い木々、食物、生活をするのに必要なもの。それだけだ。
 男を美しいと褒め讃えることはするが、花や景色を美しいと讃えることはしない。讃えても花や景色は喜ばない。言うだけ無駄だ。無駄なことをすることは『変』なことだ。死ぬのが早くなる」
 相変わらずの、そのキラ・シの強烈な思想に沙射は閉口した。
 人間の格付けが『強さ』だけしか無いのだ。
 大陸でも武人になれば似たようなものだが、まだ『強い』『普通』『弱い』と分類される。キラ・シでは『強い』か『死』なのだ。『弱い』という選択肢が無い。弱いものは死ぬしか無いから、考えの隅にも入っていないのだ。これでは確かに、部族全員が強くて当然だった。花の色にうつつを抜かしていては生きて行けない。
「それは、今もですか?」
「今も、とはどういう意味だ?」
「ル王子も、花を美しいと、今も思われないのですか?」
「今は……どうだろう。大陸の花は大きくて驚いた。鮮やかには見えるが、やはり、あなたの方が美しいしな」
 突然自分に視線を受けて、沙射は息を呑んだ。
「人間より美しいのは神だけだ。だから、神が降臨したような景色は確かに美しいが、恐ろしいのと同時だからな。楽しんでいる暇は無い。美しいというのは、同時に死をもたらす。
 人間も、『美しい男』というのは強い。強い男が味方ならばいいが、敵ならばそれは直接己の死に繋がる。楽しんでいる余裕は無いな」
 ああ、それがキラ・シの『美』なのだ、と沙射は感嘆した。眉目では無いのだ。強いもの、偉大なものが『美しい』のだ。
「ああ……そうか……景色を美しいとは、気付いては、いたな。うん。だが、それを楽しむという気が無かったから、大陸の『美しい』というのと違うものだと考えていた。楽しむか楽しまないかは別にして、『美しい』と景色に対して感じていたことは事実だな」
 ただ、花の何が美しいのかはわからん。とル・アがくちびるの中で呟いた。
「美観を楽しむことが無い、ということは日々の楽しみは何をなさっておいでなのですか?」
 錦絵図を前に深呼吸をしたル・アは、そのまま歩いて行った。沙射の問いは聞こえなかったのだろうか。
 そういえば、自分も書を読むだけで、日々の楽しみなど何も求めなかった。空はいつでも青いし、城の上の窓からは、地上の景色も遠く、野の花などは見えない。
 羅季などの半島はナガシュの砂漠より西にあるため、大陸につきものの黄砂が流れて来ない。大きな風は常に西から東に吹く。煌都は砂漠の砂が浮遊していて空が黄色いのだ。鎮季まで行くとそれは少し治まるが、西南の空の美しさは格別だった。
 それでも、空は毎日違う様相を見せる。昨日と同じものを見ることが無いだけでも、沙射は楽しかった。
 以前ル・アが言っていたように、強さを求めるキラ・シは、狩りや鍛練などに楽しみを見いだしていたのだろう。そう、沙射は一人で納得して頷き、ル・アのあとを追った。
 ル・アは背が高く足が長く、動きが速いので、ル・アが普通に歩くと沙射は駆け足になる。ル・アがゆっくり歩いても早足だ。こうして庭に下りた時、ル・アが沙射に合わせて歩いてくれているから、沙射は慌てずにすむ。けれど今のように、ふとル・アが普通に歩くと、沙射は慌てて追い駆けなければならなかった。
「こういう景色の『美しさ』を楽しむには、『余裕』が必要だ」
 ル・アは言うのだ。
「今、この景色を見てぼんやりしていても食べるものに困らない。命がすり減らない。子供がたくさん残る。その安心感があってこそ、景色を楽しめる。それが大陸の『文化』であり、豊かさだ。
 キラ・シが蛮族だと言われれば本当に頷くしか無い。そんな余裕など、どこにも無かったからな……」
 ル・アが木の実を手にして手を上げると、その手に小鳥が寄ってきて種をついばんでいく。
「キラ・シでも、女さえいたら、それぐらいの余裕はあっただろう……」
 ル・アが苦笑した。
「とにかく子を成さねば当代でキラ・シは滅びてしまう。強い男しか子をなせない。部族全員が強くなることに血道を上げていた。ぼんやり休むものなどいなかった。景色など、見てはいなかったな……いや、見てはいたけれど楽しんではいなかった。楽しむという心証が、今でもやはり、わからない。強くなることだけに必死だった。
 こうしてゆっくりしている間も、他の戦士達は鍛練をしている。追い越されたくないから、鍛練したくて仕方が無い。どこかで、焦る。鍛練するか、食料を獲りに行くか、食べているか、寝ているか、交合しているか、戦っているか、書を読んでいるか、政務をしているか……それ以外の時間は、無駄だ。何かをしたくて焦る。やはり、景色を綺麗だと、『楽しむ心』は、無いな。意味が無い」
 それなら鍛練なさればよろしいのに……という言葉を、沙射は口に出す前に噛み殺した。
 ル・アは、自分を口説くためにここにいるのだ。
 沙射のその、口に出さなかった言葉をル・アもわかったのだろう。
「あなたは、こういう時間が好きだろう?」
 小鳥を乗せたまま、掌を沙射の方へと差し出した。沙射が手を出すと、その鳥はつとつとと沙射の指先に移ってくる。つくつくと指先に鳥の爪がかすかに当たった。痛いほどではないが、心地好いものでもない。だが、沙射自身はその鳥を追い払うようなことはできなかった。生き物を手に乗せているという、この状況がすでに怖い。目尻が引きつって青ざめてくる。
「あなたは、本当に怖がりだな」
 ル・アが手を出してくれたので、鳥がまたそちらに移って餌をついばんだ。
「……慣れないもので……申し訳ありません」
「謝る必要は無い。困るのはあなただけだ……ああ、俺も困っているのか……」
 ふと、ル・アは呟いて天を見上げる。
 自分の怖がりのせいで、ル・アに返事を返せていない。沙射にもその自覚があったので、そのル・アの呟きに少し焦った。
「そういう状況でしたら、強くなるのを諦める方はいらっしゃらなかったのですか?」
 思わず何か言葉を探して、ル・アに苦笑された。笑って振り返られる、その声がくすぐったい。
「初雪が降ると、部族一を決める試合をする。その時、上位の戦士達が具合が悪くて倒れたことがあった。そうなれば下の戦士達でも子を作ることができる。そういう時にどれだけ上にいるか、それも戦いだ。手を抜く者はいない。どんな男でも、自分の子供が欲しい。部族の存続だけが、悲願だった。その前には、何も……何も余裕など……無かった……」
 ル・アが空に手を伸ばすと、小鳥が寄ってきた。掌の餌をついばんでさえずっている。
「山の鳥は、食われるから人には近づかない。大陸では鳥も余裕がある」
 ル・アの掌の餌がもうすぐ尽きる。沙射は女官に、もう少し餌を持ってくるように言づけた。この庭には、人になついている鳥がたくさん放されているのだ。
「それを、余裕ととるか……」
「きゃっ……あっ!」
 沙射が女官を見た時、女官は青ざめて凍りついた。
「馬鹿馬鹿しいととるか……」
 ル・アが、右掌に止まっていた小鳥を握り込んでいた。二羽の小鳥がその長い指に絡め捕られている。
 いくら人に慣れた鳥だったとは言え、素手で捕まえるなど簡単なことではない。しかも、ル・アは左利きだ。
 練兵場で刀を持った時にも気付いたけれど、この人は生粋の戦士なのだ、と沙射は再確認した。否、ル・アだけではなく、キラ・シ全員がこうなのだろう。もしかしなくても、羅季のこの、太平楽な生活を『楽だ』とは考えられずに苛々しているのかもしれない。
 山の苦しい生活から大陸の贅沢な生活に憧れて大陸を制圧した。ほとんどの大陸の者達は、キラ・シをそう見ているだろう。
 だが実際には、部族の存続を賭けて山を降り、帰りたくても帰れないのだ。
 キラ・シが……というのは沙射にはわからないが、ル・アやガリ・アが大陸の生活を楽しんでいるようには、奢侈に溺れているようには、沙射は見えなかった。この二人から感じるジリジリとした熱は、『楽』を忌避する感情なのかもしれない。
 帰れないから大陸にいるしか仕方なく、政務をする必要が出る。だが政務をするような教育は受けていないからできず、大陸が荒れ、結果的に悪政となり反乱が起きる。
 決してキラ・シが豪遊しているから政務ができない訳ではない。それは中にいる沙射が見ている。ル・アもガリ・アも、自分の贅沢品など何一つ国庫で買ってはいない。
 ただ、『知らない』のだ。大陸の『政治』を。
 今、以前より『変わらない政治』ができていてるのは、勿論、大臣達が生き残っていたこともあるだろう。だが、以前は、為政者が自分の贅沢のために税金を使っていたというのもあった筈だ。キラ・シは、豪遊するための金を使わない。その分、国庫に余裕があるから、悪政でも民が怒るほどの被害が出ないでいるのだ。
 沙射が王都に来た頃は、ル・アから、後宮に二千人の女性がいる、と聞いていたが、それも全員が宿下がりを申し出ていなくなったらしい。元から、後宮には女性がいただけで、食費以外はそんなに資金は掛けられていなかった。以前の後宮のような贅沢をガリ・アは許さなかったからだ。だが、それも綺麗さっぱり無くなった。ル・アがそれを確認して、後宮を閉めた。掃除もするなと言われているので、莫大な税金を掛ける先が一つ、無くなったのだ。
「後宮を失くすのに二年掛かった。女をどこに入れる? と大臣達に聞いたのが間違いだった。無駄金を使ったものだ」
 ル・アはそう言って、また倹約先を探しているようだ。
「辛巳に、言われたことがあった」
 ル・アは鳥を掴んだまま、天を仰いでいた。
 辛巳には沙射も会ったことがある。
 ル・アに、一番頻繁に会いに来る商人だ。キラ・シに最初に商売を持ちかけてきた人だと言う。
 ル・アは彼のことを『俺の第三の父』と言っていた。晩餐を伴にしたことも何度かある。非常な知識の広さで、ル・アの質問に答え続けていた。逆にル・アに問うことも多い。
 『問われる』ことがル・アは好きだから、とても楽しそうに答えていた。


   □ 食いつぶす


 ル・アが一二歳の時、辛巳は三九歳だった。
 痩せぎすで色白の男だ。
 付き合いはル・アが大陸に降りてきてからだから、五歳の時からだった。ル・アは、なんでも知っている辛巳が大好きで、彼が陣に来るたびに色々なことを聞き続けた。
「あなたがたは何をするつもりなのですか?」
 キラ・シが王都を制圧した時、辛巳はル・アに問うた。
「ラスタートをご存じですよね?」
「ああ、北を横断した時に見た。馬に乗った者達だな。強そうだった。戦にならずに済んで良かった」
 ル・アは草原の騎馬民族を思い出す。
 何を話し合った訳でもなかった。ただ、専恣からマリサスに抜ける時にラスタートを少し横切ったのだ。車李王雅音帑から、ラスタートは避けた方が良いと言われたので、北海岸縁を東進していた。専恣を西に抜けると大きな湖があったので一休みしたが、そこがラスタートの領土だったらしい。
 遠くに騎馬の姿は見えていた。みな、それに向かってキラ・シ礼をし、あちらも似たような礼を返してきた。そこにいたのは一晩だ。寝ている間も襲っては来なかったし、出立しても追っては来なかった。とにかくあの領域には入るな、と雅音帑が言っていたのでガリ・アも興味は無かったのだ。
 その時はただ、キラ・シの新年を山の上で過ごしたかった。時間が差し迫っていて、早く山に登りたかったのだ。襲ってこられたとしても、応戦せずに逃げただろう。新年を祝う方が優先だった。
 高い山で日の出を眺めた。苦い水を湛えた湖の傍で初飯をした。そこにマリサスが国を構えていたなどと、知る由も無い。
 辛巳は言うのだ。
「ラスタートは強いです。けれど、彼らは煌都を攻めも制圧はしない。なぜだかわかりますかな? 彼らは領土を守ることはできても、国土を守ることはできないからです。
 我々はラスタートと一括りにしていますが、あの領土には数十の部族があると聞きます。それぞれが、自分達が生きるために他部族と取り決めをし、あの広大な原野にぽつりぽつりと生活しております。彼らは特別な場合でない限り集まったりしません。数百、多くて二千ぐらいの部族が悠々と移動しながら生きています。
 人間がその数なら、法律は必要ないのです。してはいけないこと、を全員が熟知しているからです。そこはキラ・シも一緒でしょう? これをすれば決闘になる。だからしない。
 それはなぜですか? その決闘になることをすれば必ず発覚するからです。
 人数が少ないから、騙し通すことができないのです。
 けれど、煌都は違います。他の国は違います。煌都で二十万人の人間が一ヶ所で住んでいます。そうなると、残念ながら罪を犯すことは簡単なのです。
 人間の数が少なければ、全員が同じぐらいに働き、隣の人が働いていることを知っているでしょう? だから、誰かが怪我をして働けないとしても、自分の狩った獲物をその人に分け与えることは苦でもないでしょう?
 けれど二十万人の人間がいる場合。残念ながら、全員がまじめに働く訳ではないのです。そして、働いていない者に、働いた者が自分の稼ぎを分け与えることは不可能です。
 働かない者の数が違います。働かない理由が正統でないからでもあります。与えられれば働かなくなるものがいます。だから、人間が多くなってくると、『働けない者』に『働ける者』が『与え続ける』ことは不可能になるのです。法律、が必要になるのです。
 キラ・シは大陸を征圧して、大陸の人間を治める気はあるのでしょうか?」
「人間を治める? 人間が人間を治めるなど、あってはならないことだ。人間を治めるのは神だけだ」
「それは、少数民族であるあなたがたの間でしか通用しません。大陸に、神はいません。
 神がいない、というのは語弊がありますが、神が人間を助けてくれることはありません。人間は自分達で自分達を助け、自分で自分を守らなければなりません」
「それは俺達も一緒だ。山の神とて、人間を助けたりはしない」
「いいえ、違うのです」
「何が違う」
「強さが、違います」
 辛巳はル・アの瞳を見て、言い含める。
「キラ・シは自分で自分を守るために全員が強い」
「当然だ。全員戦士だから」
 それがキラ・シの誇りでもある。
「大陸の人間は全員が戦士ではないのです。農業に従事するもの、商売に従事するもの、他人の世話をするもの、戦士以外は、みな、弱いのです。
 弱いから、襲われれば、死ぬしか無いのです。けれどその弱い者達がいなければ、生活はできないのです」
 辛巳は大きく手を振って、ル・アの注意を引き続ける。
「毎日、一日中農業をしている農民がいなくなれば、食べ物ができません。一日中機を織る者がいなければ服が手に入りません。一日中食べ物を売っているものがいなければ食べ物が手に入りません。大陸の人間は分業が成り立っています。
 全員が戦士であることをやめたがために、食料の入手確率が増え、豊かな生活ができるようになりました」
「キラ・シだって貧しい訳じゃないっ!」
「それは心が、でございますよ。毛皮を適当に繋げた服を何年も着続け、木の実をとり、とった獲物だけで生活する。それは、富める生活とは言えません」
「俺達は自分達が貧しいなんて考えたこと無いっ!」
「考えたことが無いから気付かないだけです。あなたは今、大陸の服を着ていますね。着心地が良いでしょう? あなたが着ていた服はどうでしたか? 毛皮を重ねただけの服です。また着たいですか? この服が着心地が良いのは、服を作るのを専門にする者が作っているからです。あなたがたが大陸の酒が美味い、というのも、酒だけを作っているものが作っているからです。専門化すれば、技術は向上します。あなたがたが戦士として専門化しているがために、誰よりも強いのと一緒です。
 あなたがたは戦いの専門家なのです。
 けれど、だから、食事を作る専門家ではありませんし、服を作る専門家でもありません。
 あなたがたは戦いながら、狩りをしながら、自分の服を作らなくてはいけませんでした。縫製の技術が無いから、毛皮を紐で巻き付けるしかできませんでしたね?
 けれど部族の中で服を作る専門の人間が一人いたらどうだったでしょう? 彼は戦わないけれど、あなたがたにこういう服を毎日作ってくれます。けれど、毎日服を作っているので鍛練していません。彼は弱いです。けれど、彼が弱いからと言って、あなたは彼を軽蔑しますか? あなたに着心地の良い服を作ってくれる彼を、戦が起こったら守りませんか?」
 それは、常々ル・アも考えていたことだった。
 キラ・シの、『強さ』だけを機軸にする思考に、無理があるとは気付いていたのだ。
「大陸の人間はそういう考えで成り立っています。
 戦をしない人間が専門に何かをしてくれます。だから、戦ができる人間は彼らを守るのです。そして、戦うことを専門とした人間は軍人と言われ、あなたがたと戦っています。
 そして、この大陸を征圧したなら、あなたがたはとても贅沢な暮らしができるでしょう。今まであなたがたがしていた食料の調達、衣服の調達を全部他人がしてくれるからです。
 けれど、あなたがたはその彼らを守る責任が出てくるのです。楽をして他人からものを奪おうとするもの達から、その専門家達を守らなくてはなりません。法律が必要なのです。そして、彼らを守るためには『銭』が必要になります。その銭は彼らから徴収しなくてはなりません。彼らはあなたがたが自分達を守ってくれる代償として『税金』を払います。そのお金であなたがたは彼らを守るのです」
 『銭』自体キラ・シには無い。辛巳が最初に商売を持ちかけてきた時は、辛巳が考慮してくれたのだろう、物々交換が成り立った。そのうち、ル・アは彼にとくとくと大陸の摂理を教えられ、『銭』の必要性を叩き込まれたのだ。
 戦だけでも面倒臭いのに、『銭』のことを考えると頭が割れそうだった。
「面倒臭いと思うでしょう? そんなことしたくないでしょう? 今のまま、全員で戦って、着の身着のままで暮らしたいでしょう? だから、ラスタートは煌都を攻めて来ないのです」
 ル・アがいやそうな顔をしたのを見て、辛巳はゆっくりと、何度も頷いた。
「自分達に政治ができないのを知っているからです」
 『政治』という単語を、ル・アはこの時初めて聞いたのだ。
「自分達の国すら作れない彼らに、他人の国をどうこうなどできる筈がありません。彼らはたまに、煌都からものを盗んでいく以外、何もできないのです。
 あなたがたは大陸を制圧して『国』を作るのですか? それとも食いつぶしてまたよそに行くのですか?」
 辛巳の言葉に、ル・アはすぐ返答ができなかった。
 食いつぶしてよそに行く、という言葉が、今でも酷くル・アの印象に残っている。
 大陸に降りてからは、その国の食料を食い尽くしているような気が、ル・アはしていた。
 キラ・シは総勢二〇〇人しかいない。だから、全員が腹一杯食べたとしても、二万人を抱える町では痛くも痒くもない。
 山では客は珍しい。だから、財産を投げ打って歓待する。だからこそ、客は出されたもの全部を食べてはいけない。その家の食料を食いつくし、その家を滅ぼすことになるからだ。
 キラ・シは大体、三でものごとをする。客に出す肉の串も、一本の串に肉を三つ。もしくは三本ずつ出す。主の前に串が無く、自分の前に三本立てられたら、一本は主に返して客が二本を食べる。それが礼儀だ。主の前に主の分の食料がある時は気にしなくていい。
 だが、大陸に降りてくるとその常識は当然、通じない。出されたものがすべてかどうかがまずわからない。征服者であるキラ・シが食べている間、被征服者は食べないことが多い。それは、食料がキラ・シに出した分しか無いのかどうかがわからない。
 だから、ル・ア達は先に食料庫を探して、三分の二を食べ尽くす前にその町を出る。その心配をし始める頃に、車李王雅音帑から、次の進軍候補地の地図が届くというのもあった。
 食料の量が多いので非常に面倒臭い。それをル・アが全部任されていたりするのでいやでも計算が速くなる。大陸を制圧すれば、この何十倍、何百倍の苦労がのし掛かってくる。
 それをル・アは実感していた。
 父上は、どうなさる気なのだろう。
 それは常々疑問だった。車李の王に良いように動かされているような気がするのだ。
 車李の言う通り進めば進軍は容易だったようだ。だが、最初に降りてきた目的はなんだった? 女を確保するためだった。ならば、最初の町でのんびりしていれば良かった。なぜ撃って出た? 皇帝を殺してしまったから? 大陸を敵にしたから? ならば、なぜ大陸の雄である筈の車李はキラ・シに味方する?
 ル・アは一二四一年に留枝で産まれ、四歳まで山でサル・シュに育てられて大陸に降りてきた。その頃には、キラ・シは南西から南をぐるっと回ってナガシュにいた。一年ほどそこで休んで、砂漠を避けて北西へと進軍したのだ。
 ル・アはある程度羅季語が喋られるようになっていたので、雅音帑とよく話をした。
 特に、雅音帑の夭折した一一番目の王子とル・アが同じ歳だと言うことで、気に入られたらしい。読み書きは雅音帑に教わったと言っても良いかもしれなかった。
 山の長老と似たような歳の筈なのに、矍鑠としている彼を、当時はル・アも尊敬していた。山の長老は、すでに歩くこともやっとのありさまだったのだから。雅音帑の元気さにはキラ・シ全員驚いていた。ガリ・アが彼を長老のように接していたのでル・アもそれに倣っていただけだ。嫌いではなかったが、何か、ル・アは腑に落ちなくて、雅音帑が聞くキラ・シの内情は、一切喋らなかった。
 辛巳も言っていた。
「雅音帑王を利用するのは良いが、利用され過ぎないように気をおつけなさい」
 ル・アの心配は、彼も同じだったのだ。
「雅音帑王がキラ・シに協力する真意はなんだと考える?」
「乱世をキラ・シに平定して貰い、その後、蛮族打倒でキラ・シを放逐か、小国に閉じ込めれば、大陸は車李のものですな」
 辛巳の言葉は、いつも端的だ。
 彼の利益もその中にはあっただろうけれど、ル・アは、雅音帑よりは彼の方が信用できた。
 キラ・シは『銭』を知らない。
 辛巳が来てから他の商人達も群がってきたが、ほとんどはキラ・シと商売できずに去った。
 キラ・シは物々交換しか知らないから、『銭』での商売ができなかったのだ。意図せず、商人達に大損をさせていたらしい。
 辛巳とて、未払いの会計があるという。それでも、そんなことを度外視して、ずっとル・アに付き添ってくれていた。なんでも教えてくれた。
 『銭』だけを教えて、自分の都合のよいように商品を売りつければ良いのに、計算方法や、数字の読み方をル・アに教えてくれたのだ。それらを知らせない方が、自分に得な取引ができるのに。
「私は、あなたを『見つけ』たのですよ、ル・ア」
 辛巳は良くそう言ってル・アに笑いかける。
「あなたは私の夢です。あなたが賢く成長して、大陸を治めてくれることが、私の夢です」
 何を言っているのか、ル・アはわからなかった。五歳の、しかも蛮族の子供にどんな将来を描いていると言うのか。
 けれど、辛巳はル・アをわが子のように扱ってくれた。
 大陸の父親が子に諭すように、ル・アに読み書きそろばんをすべて教え、大陸の考え方も学ばせてくれた。雅音帑は王侯としての書だが、辛巳は庶民の書だ。
 それは決して、大陸はこうだからこうしなさい、というものではない。「キラ・シはこうですよね? 大陸はこうなのです」そう言って、にっこりと微笑んだ。そのあとどうするかは、ル・アにゆだねて何も強制しなかった。
 なぜ大陸の人間はこうなのか、なぜキラ・シの人間はこうなのか。ル・アと接しているだけなのに、一番キラ・シを理解してくれた大陸人でもあった。
 否、キラ・シのことは何も知らなかっただろう。
 ただ、一度もキラ・シの倣いを否定しなかった。「それは駄目です」という言葉を、ル・アは辛巳から聞いたことが無い。
 大陸の倣いが正しいのでも無く、キラ・シの倣いが正しいのでも無い。各国それぞれに正義はあり、各国が自国の正義に沿って動いているのだ、と。それらが重なれば協力し、ずれれば敵対する。時節にそった『方法』のみが正しいのであって、過去の倣いはただの『譬え』なのだ、と。過去にされたことの中で、成功例が多いものが『倣い』として生き残って来たから価値があるのであって、語り継がれなかった出来事の中にも、成功例はあり、それはこれからも一緒なのだ、と。
 『倣い』というのは、一〇〇人が実行して六〇人が成功できるもの。それが『倣い』だ。一〇〇人が実行して一人しか成功しないものは、例外として継がれない。けれど、その『例外』は『大成功』なのだ。
 似たようなことをサル・シュも言っていた。長老の言う倣いなんて、戦の無い時に護れば良い。自分に支障の無い時に護れば良い。生き死にが掛かっている時に、悠長に守る必要はない、と。
 だからこそ、ル・アはこうして生きている。サル・シュが長老の倣いを守る戦士であったのならば、ル・アは産まれた時に殺されただろうし、そもそも、産まれなかった。
 ガリ・アもサル・シュも、長老に逆らって大陸に降り、ル・アをこの世に産んだのだ。
 『倣い』というものの『大きさ』を、ル・アは辛巳に言われて、ようやく実感した。倣いとは過去の成功例の一つであって、絶対ではないのだ。ただ、それを守ると生き残りやすくなる。それだけの話なのだ。
 山では、『生き残る』ことが難しいから、倣いは絶対だった。だが、この大陸に置いては、『苦しまない』ことは難しいが、『生き残る』ことはそれ程難しくは無いらしい。そして、『倣い』を無視したものが、やはり世間から嫌われて苦労するのだとか。
 しかし、『苦労』というのならばル・アも苦労して来た。たかが四歳でキラ・シの山を降り、それから十年はずっと戦争の後陣を努めてきた。三人しかいない通訳の一人であり、商人の対応はほぼ全部ル・アがしていた。それを苦労と言わずして、何を苦労と言うのだろう。子供らしく遊ぶことなどほとんどない。寝る暇さえ無かった程だ。
 ただ、『死』に対する焦燥は、無かった。病は怖かったけれど、戦場に危険はほぼ無かった。大陸の軍隊は弱かったし、サル・シュはいつも血を浴びて輝いていた。
 その上で、辛巳に会えた。辛巳はル・アに会えたことを生涯最大の幸運だ、と言ってくれたが、それはル・アもそうだ。
 彼に会えなければ、ル・アは未だに、『羅季語を喋ることができたキラ・シ』にすぎなかっただろう。大陸の考え方は理解できなかった筈だ。
 『人との縁』が一番大切だ、とル・アは実感する。自分に学びを与えてくれる人とどれだけ出会えるか。それが人生を巨大なものにしてくれる。だが、一方的に与えてくれる人ばかりが居る筈も無い。こちらから与えなければ与えてくれない人が大半だ。だからまず、『与えられるもの』を持たなければならないのだ。
 キラ・シにとって一番簡単な方法。『お前を殺せる実力』。殺さない代わりに何をくれる? それは、キラ・シの戦士なら誰にでもできることだ。それとて、重大な能力なのだ。
 ただ、平和的にしようとすれば、何があるだろう。そう、ル・アは考えた。キラ・シには金がある。水晶がある。大陸で価値のあるこれらは、十分対価になった。ただ、それは『ル・アの価値』ではない。『キラ・シの価値』だ。あの時点での『ル・アの価値』は、キラ・シであること、ガリ・アの息子であること。これのみだった。
 自分から発する価値を、ル・アは欲したのだ。まず武力。そして、知力。とにかく、すべてを覚えていけば、最終的には何かの助けになる。知らないことを質問し続けた。時間があれば鍛練を続けた。暇を見つけては、書を読みあさった。
 そして、何度もキラ・シの戦士に教えて聞かせるのだ。
 大陸の『銭』というものを。
 ル・アはすでに一四歳。大陸に来て十年。
 どうにかル・アは『銭』のことが理解できたが、キラ・シの戦士達は未だそこには至らない。二〇年三〇年と山で暮らし、キラ・シの倣いだけが染みついて、大陸の考えを視野にいれる隙間が無いのだ。
 なぜなら、自分達はキラ・シなのだから。
 キラ・シだからキラ・シの倣いで生きる。それになんの疑問も無い。そこには、大陸の倣いなど、入り込む余地が無いのだ。
 ル・アは山で暮らしたとは言っても四年。、ずっとサル・シュと一緒だったので、ものの授受は彼がしていて、ル・アは手を出せない領域だった。だからこそ、『銭』での『交換』が簡単に受け入れられたとも言える。物々交換が、まだ身に沁みていなかったからだ。
『どうして銭を使わなければいけないのかだって?』
 ル・アは、兵士達から上がった不満の声に耳を傾けた。多くの戦士は、未だに物々交換をしたがり、銭を理解しない。
『ここでお前が交換したい羊がいるな。お前は遠くの国の魚が欲しい。すると、お前は羊を遠くの国まで連れて行かなければならない。その間に死んだら財産はゼロだ。だが近くの街で羊を売って銭に買えておけば、羊より軽い体で遠くの国まで行けて、ちゃんと魚が買える。遠くまで羊を運ぶのは不合理だろう?』
『でも今は、こいつとのやりとりだ。遠くまで羊を連れて行くひつようなんかねぇ。俺はこの犬っころをその手袋と交換したいだけだ』
『では、どこからが「遠くない」? 家の外か、隣町か? お前は走るのが早いから隣町でも遠くないだろうが、このじいさんに隣町は遠いぞ。遠い遠くないってのはお前の考えだろう。それに、このじいさんは「犬はいらない」んだ。犬と交換だとこの匙一つも交換できないんだよ』
『なんでだっ! 犬だそっ! 五人前の肉になるっ!』
『このじいさんは食い物を扱ってない。食い物を引き取ってくれる相手を知らない。だが銭で渡せば、誰相手にも銭は使える。大陸では、銭以外ではものは手に入らない。お前はその犬をどこかで売って銭に替えて、このじいさんからその銭で手袋を買うんだ』
『なんでそんな面倒くせぇんだよぉっ! 銭を省いた方が早いじゃねぇかよぉっ!』
『この商売だけのことじゃない。大陸では全部のことを同じことでやりたがる。ここでだけ物々交換して、あっちでは銭でやりとりする。その方がこのじいさんにとっては面倒なんだ。全部銭でやりとりするのが楽なんだよ。ここでお前が犬と手袋を交換して、あっちで猿と剣を交換したら、犬と猿が大騒ぎだぞ。じいさん間に挟まれておっちんじまうかもしれない。お前、じいさんの葬式出してやれるか?』
 みなが笑った。
『まだじいさんはしばらくここにいるから。元気なお前がひとっ走りどこかで犬を銭に替えて来い。それともお前は「長老」に走らせる気なのか?』
 最後に商人の年齢まで出して言われて、年功序列が染みついているその兵士は、慌てて犬を連れて走って行った。
『お前ら、ここでは銭があれば何とでも交換できる。父上はお前らに銭を渡してるだろう? 貰ってない奴手を上げろ』
 ル・アが、自分が手を上げて辺りを見回す。
 王都に入ったあと、キラ・シにも『給金』が銭で支払われるようになった。だが、キラ・シは銭を使う風習が無いため、貰った分を一日で使い切る者達が大半だった。すぐに、それに目をつけたならず者に巻き上げられる者があとを絶たなかったのだ。だから、訓練のあとに当日の雑費分を隊長が『族長からだぞ』と渡し、月末に全部を清算して渡していた。溜める者は溜めるし、使う者は使い切る。
 全部の払いを国政で建て替えるのが、一番キラ・シにはあっているのだけれど。山にいた時とは違って、品の価格が一定していない。
 山ではみんなが同じものを持っていたから互いに価値がわかっていたけれど。うっかりと翡翠の剣や螺鈿漆の皿などを有り金はたいて買わされた兵士などもいた。そんな贅沢品を買うために国庫を開く訳にはいかないので、給料を決めざるをえなかったのだ。
 その反対に、商人達もキラ・シのその風習に大分泣かされたらしい。今ではキラ・シの戦士達に商売を扱ってくれるのはこの老爺だけだった。
 キラ・シにとっては二百銭の刀も二万銭の刀も見分けがつかないのだ。刀は刀。羊一頭としか交換しない。文句を言うと刀を向ける、では誰もものを売ってくれなくなって当然だった。あとでル・アがそれを聞いて、何度謝りに回ったか。
『なんだよ……貰ってないの俺だけかよ……ちぇっ……俺も早く戦に行きてーよー!』
 椅子に座ったまま、じたじたと暴れたル・アに全員が笑った。ル・アは拗ねて大きく溜め息をつき、天井を仰ぐ。
 息を吐ききった時、全員が凍りついた。真正面に顔を戻したル・アは、笑ってはいなかったのだ。
『いいか。商人という部族を敵にするな。山を下りたら、商人を通さないと何も手に入らない。商人と戦をしたら、父上でも負ける。いいな?』
 笑わされたあとに凄まれて、全員が神妙に頷く。
『さっさと山猿の皮を脱げ。父上を恥知らずにした奴は、その場で首を刎ねる』
 背負っていた刀を振り切って、ル・アは宣言する。ル・アの反対側にある壁が、刃の長さ分砕けて落ちた。
『キラ・シは強い。俺達は強い。この大陸の誰より強い。それは俺が良く知っている。お前達は強い。誰より強い。
 だが、ここは山じゃない。大陸だ。みんな大陸の服を着てる。山の毛皮を脱いだだろう? なぜだ? 大陸の服の方が良かったからだな? 大陸の恩恵をすでに受けている。その分ぐらい、大陸の倣いを覚えろ。それだけの話だ。キラ・シが弱いから大陸の倣いに従うんじゃない。大陸の恩恵を受けた分、大陸の倣いに従うんだ』
 ゆっくりと、ル・アは噛んで含めるように言って聞かせる。
『女が手に入った。子供が増えた。もう、キラ・シは滅びない。
 なぜだ? 子を産んだのは誰だ? 大陸の女達だろう? みな大陸の恩恵を受けただろう?
 俺達は山キラ・シとは違う。大陸の新制キラ・シだ。新制キラ・シには、新制キラ・シの倣いがある。新制キラ・シは、銭で交換するんだ。それが、俺達キラ・シの倣いだ。
 新制キラ・シの倣いだ』
 刀を鞘にしまい、ル・アは戦士達を見渡した。
『新制……キラ・シ……?』
 誰かが呟いた。
『そうだ。俺達は、新制キラ・シ。キラの長男である父上ガリ・メキアは、山から大陸に降りて、新しい部族を作ったんだ。
 山の長老とは違う部族だ。父上の部族だ。お前達、父上について来た最強戦士達は新制キラ・シなんだっ! 新しいキラ・シなんだっ!』
 戦士達の宿舎が津波のように轟いた。
『新制キラ・シっ! 新制キラ・シっ!』
 男達が、飴玉を貰った子供のようにはしゃいで口にした。
 ル・アが右手を挙げる。みな、一斉にル・アを見て黙った。
『新制キラ・シは銭で交換する。それが、新制キラ・シの倣いだ。いいな? 誰か山キラ・シが残っているのか?』
『いないっ! 俺達は全員新制キラ・シだ!』
『銭を使うな?』
『銭を使うっ!』
『よし、では、銭の数え方を覚えようか。十位まで、集まれ。他は好きにしろ』
 ル・アは今年の武闘大会の上位十人を集めて銭の講義を始めた。強い者達に説明をし、彼らが弱い者達に説明をする。それは以前からの『倣い』だ。
『新制キラ・シ! 新制キラ・シ!』
 新しい名前を与えられた戦士達は、ル・アとガリ・アをさらに崇めるようになった。
 『新制キラ・シ』というのはル・アの口からでまかせだったが、あっと言う間に大陸中のキラ・シに伝播した。一番喜んだのはサル・シュだ。
『「新制キラ・シ」イイ! ガリメキアも嬉しそうだったぜ! ル・アやっぱり凄いよ。最高っ!』
 無意味にル・アの背中をバシバシ叩いてご機嫌だ。
 このあと、『新制キラ・シ』は大陸の倣いを受け入れて、ずいぶんおとなしくなったので、商人達も戻って来て、大陸の女達と結婚する男達も数多く出、平和になっていくように見えた。


   □ 葬送


 辛巳が、そんなにル・アと深い間柄なのだ、と沙射は知って驚いた。
 第三の父と紹介された時点で、近しいのはわかっていたが、キラ・シと大陸人の間で、何があったのだろうと思っていた。沙射が来るまで、ル・アを教育したのが辛巳なのだ。
 ル・アの計算が速いのは彼の教えの賜物なのだろう。
 だが、今沙射の意識を引いているのは、ル・アの思い出語りではなく、その右手の中にいる、二羽の小鳥だった。先程ル・アが掴んだまま、悲しく鳴きながらもがいている。
「辛巳殿は、素晴らしいお方ですね」
「ああ。素晴らしい。あんな父はそういない。よくぞ、蛮族の俺を子と見てくれたことよ。大陸人に近づけてくれたことよ。感謝し尽くせぬ人だ」
 沙射の視線の先、ル・アは天を仰いでいた。そして、ゆっくりと沙射を振り返る。右手を少し差し上げて見せた。
「どうする?」
 沙射は青ざめて、何度かまばたきをした。
 まだ、鳥は、生きている。鳴いている。もがいている。
「放して……やりましょう」
「空に?」
「はい」
 ル・アが指を開くと、鳥達は激しい羽音を立てて飛び立った。けれど、一匹は翼を悪くしたのか、うまく飛べないようだ。沙射がおろおろと見ていると、ル・アが足元から小石を拾い、投げた。沙射の視線の先、ふらふら飛んでいた小鳥が芝生に落ちる。ル・アの投石が当たったのだ。否、当てたのだ。
「なぜそのようなことをなさるのですか」
「飛べなければすぐに死ぬ。トドメを刺してやる方が親切だ」
「あなたが……飛べなくなさったのでしょう?」
「無防備に近づいてきたからだ」
 ル・アは、残っていた餌を掌に載せて天に伸ばす。他の鳥が餌をついばみに来た。
「学ばぬ奴らだな」
 またル・アが小鳥を握りつぶさないかと沙射ははらはらした。
「大陸の奴らのようだ……キラ・シが強いと、いつまで経っても学ばず反乱を起こしてくる」
 餌が全部無くなったのか、鳥が飛び立った。それを見送って、ル・アが天を仰ぐ。
「たかが……こんな奴らを掃討することすら……父上は許して、下さらないのか……」
 小さな、小さな声。 
「俺は……まだそんなに……弱いのか……」
 沙射は、聞かない振りをして、ル・アに背を向けた。
 何度もル・アが、反乱鎮圧に出陣したいと言っていた。それをガリ・ア王帝が許可せず、鬱憤を溜めているのを沙射は知っている。
 ル・アが先程の鳥が落ちた所まで拾いに行っているのを見て、沙射も追い駆けた。ル・アの手の中で、まだ鳥は生きている。手当てでもするのだろうか、と鳥籠でも用意させようとしたら……ゴキッ、と首の骨を折った音が聞こえて、沙射は立ち尽くす。
「まだ息があった。苦しませて悪かった」
 近くにいた沙射に、死んだ小鳥を差し出して見せるル・ア。
「そ……の小鳥、どうなさるのですか?」
 ぶらりと小鳥を右手に持ったまま、沙射の方へと歩いてくるル・ア。問われて、その小鳥をふと見ながら小首を傾げて見せた。
「食う以外に、羅季では何かするのか?」
「食べるのですか?」
「殺したものを食べずにどうする」
「きゃあっ!」
 今日の夕食に出せ、とル・アは女官にその鳥を投げて渡した。女官が青ざめて取り落としそうになり、泣きながら胸に抱き締める。慌てて建物へと走って行った。
「埋めるとか……」
「埋める? なぜ?」
「死んだら、埋葬しませんと……」
 言ってから、沙射はキラ・シと羅季の葬送方法が違うのを思い出した。キラ・シの葬送で言えば、山に野ざらしにするのだろう。食べることは葬送ではない筈だった。
「人間以外に葬儀をしてどうする。鳥達が葬儀をしているのを見たことがあるか? あの小鳥を埋めて、小鳥の家族が喜ぶのか? どれがその家族だ。あなたがこの小鳥を埋葬すると言うのならば、私財から葬儀を出そう。この小鳥の家族に招待状を出すがいい。非礼もわびて、賠償に末代まで住まいできるよう、王宮の中に部屋を用意しよう。それが大陸のしきたりならば、従おう」
 そう言われると、人間以外の動物を埋葬することは人間の自己満足でしか無い。しかも、ル・アは嫌味でそう言った訳でもないのだ。沙射がする、と言えば、本当にしただろう。
 沙射はもう、何も言わなかった。
 キラ・シでは犬を飼う習慣も無いらしい。山にいるのは狼だけだと言っていた。鷹はかろうじて飼い馴らすけれど、やはり、死ねば食べるそうだ。馬も、そう。
「キラ・シでは人間は食べないが、キラ・ガンは、子供の肉を食べたらしい。紅隆でも……そうだったな……」
 ル・アがいやそうにそう言った時、沙射は食事ができなくなった。
 紅隆は、元々が貧しい国だった。平地がほとんど無く、田畑も少ないのに、なぜかほぼ鎖国をしていて輸入も輸出もしていない。国内は荒れ果て、物乞いの国と言われた程だ。それがキラ・シに殲滅されて人口が格段に減ったが、未だ山間に生き残っているらしい。人を食って、生き残っているらしい。
 紅隆から来る山賊は、「ものを盗らずに人を盗る」と言われる。自国の人間では足りないから、他国の人間を攫って食べている。そう言われるほど、闇の国だった。
 そこをうっかりキラ・シが通り掛かった時、ル・アは彼らが人を食べているのをその目で見たという。この頑強そうなル・アでさえ、夢にうなされ、何度も吐いたらしい。
「紅隆は、存在してはならない国だ」
 ル・アは言うのだ。
 小鳥を殺したその日、実際に夕食に出されたその小鳥を、ル・アはなんの感慨も無く食べきった。色のついた鳥が不味いというのは本当だな、と呟いただけだ。
 やはりル・アも蛮族なのだ、と女官の間で囁かれたが、ル・アは何一つ気にはしていない。彼らにとっては、自分の手でとった動植物は、すべて己の口に入れるものなのだ。逆に言うと、食べない物はとらないのだ。
 部屋を飾るために部屋に花を活ける。その心が、ル・アにはわからないらしい。羅季のしきたりだと理解しているから、何も言わないだけのようだ。食べない花が毎日替えられていることを、実は苛々して見ているのかもしれない。
 キラ・シの間では、ル・アが素手で小鳥を捕まえた、と、英雄譚の一つになっている。手におびき寄せた小鳥を掴む、という遊びが流行り、また羅季人に眉をひそめさせた。
 そして、ル・アの元には、色とりどりの小鳥が、貴族や商人達から献上された。
 その鳥達はあの庭に放され、今日も心地好い声を響かせている。


   □ 兄二人


 ル・アはよく、沙射の髪をいじった。
 口説く時の前準備だと沙射は受け取っていたが、口説かれない時でも髪に触られることが多い。
「別に、口説く口説かないに限らず、あなたの髪は美しい。触りたくなる」
「そういうものなのですか?」
「そういうものなのです」
 こっくり。ル・アが沙射の口真似をして頷く。
「まぁ……キラ・シでは珍しいだろうな。こういうのは…」
 沙射の髪を指先でくるくると巻き取りながら、ル・アは和やかな視線でその髪を、沙射を、見ている。
「そういえば、砂金を集めてらっしゃったのですよね」
「ああ……あなたの髪は、砂金より美しい。キラキラ石は重たいが、あなたの髪はこんなに軽い。それなのに、キラキラ石より輝いているし柔らかい。どういうものなのか不思議で仕方が無い。伸びているようだから、俺達の髪と同じものなのだろうということはわかるが、なぜこんな色になるのだろうな」
「それは……わたくしにもわかりかねます」
「シル兄上も、キラキラしたものがお好きらしい。だが、キラキラ石は結局は大陸に持って降りればとても有用だったから、今では何も言われない。よくそんなものを集めていたと褒められた。俺は金が好きだが、シル兄上は水晶もお好きらしい。水晶はキラ・シの村の周りに無かったから大陸に来て初めて見たらしくて、大変だったそうだ」
「どう大変だったのですか?」
「敵を倒すより、水晶や黄金の飾りをつけた者を探してしまうらしい。死体の飾りを盗ることは、キラ・シではしないのにするから、嫌われていらっしゃるようだ。生き延びたのはリョウ・カが守っていたからだとサル・シュが言っていた」
 シル・アの名前を聞いて、沙射は眉を寄せた。
 熊のような髭男が多いキラ・シで、ガリ・アのように髭が無いのがガリ・アの第二王子シル・アだ。ル・アほどとは言わないが、他のキラ・シに比べれば細くて髭が無い。
 長兄のグア・アは態度も体も髭も熊男だ。キラ・シらしいキラ・シだった。
 ル・アもこの歳にして髭を剃ったことが無いらしいので、ガリ・アと同じで生えないのだろう。
 曜嶺皇家も昔から髭が生えないらしい。沙射も無い。だから逆に、巷のものは皇家に慮って髭を生やしていたとも言われる。
 沙射は、シル・アに後ろから抱きつかれたことがあった。ル・アの後ろを歩いていたら、突然、後ろに髪を引っ張られて抱き上げられたのだ。
『凄いなこれ、髪かっ? 本当に頭から生えているのか? これ、くれよっ! ル・ア!』
 キラ・シ語で叫ばれて、沙射は身を竦めた。すぐにル・アが助けてくれたけれど、その後、廊下で二人は大喧嘩をし、シル・アが剣を抜いた所で、駆けつけたリョウ・カに止められた。剣を持っていないル・アは、それでも腰を落として、完全に迎撃体勢に入っている。
 あの時のル・アの瞳が、鍛練の時など比べ物にならないほど、強い光を浮かべていて、その全身から、風が吹き上がっているのではないかという熱を感じた。
 あのままリョウ・カが止めなければどうなっていたのだろう。考えるだに沙射は恐ろしかった。それをリョウ・カに聞いてみたことがある。
「ル・ビアはガリ・メキアとしない限り怪我をすることは無い。安心しろ」
 シル王子は? と聞き返すと、無言でキラ・シ礼をされた。
 キラ・シ礼は挨拶の時もするが、もう何も言わない、という時にもされるような気が、沙射はする。それとも、別れの礼をしたけれど、まだ言いたいことがあった、と引き返したということだろうか。
「ル・ビアは素晴らしいが、上二人は違う。彼らに何かをされたら、すぐにル・ビアか俺に言ってくれ」
 リョウ・カはそう言って、今度こそ去った。
 他のキラ・シは、沙射の身分はわからないなりに、『ル・アの客人』という感覚があるらしく、沙射に失礼をする者はいないらしい。実際、その二人以外に沙射は嫌な目にあったことは無かった。
 だが、グア・アとシル・アはル・アより年長なので、弟のものは俺のもの、と無茶を仕掛けてることがあるらしい。実際には、ル・アの方が剣の腕があるので遠巻きにしているが、それが沙射を見て我慢しきれなくなったのだろうと言うことだった。ガリ・アからも咎められたので、今後仕掛けてくることは無いと言われて安心する。
 グア・アの方は簡単だった。
 沙射を上から下まで見て、ル・アに何かを言って、そのあともう興味が無いらしい。沙射とすれ違うことが会っても、沙射を見ることも無い。
「グア王子は何を仰っていたのですか?」
「女か? と言っていた。男だ、と答えたから、二度と寄って来ないだろう。女にしか興味の無い人だから」
 話を聞くにつけ、ル・アはとても凄い人なのだと沙射は思う。リョウ・カがル・アを賛美する理由がよくわかった。
 兄二人が愚鈍過ぎるのだ。
 しかも歳の差も大きい。
 こんな馬鹿二人があの偉大なる族長の跡継ぎか、と嘆いていた人たちにとって、利発なル・アが生まれてくれたことは天恵だろう。ル・アは、とにかく部族中から愛されていた。兄二人がいなくても、そうだっただろう。地方に行く戦士、地方から王都に戻ってきた戦士は、必ずル・アに挨拶に来て長く話し込んでいる。手合わせを申し込んで来るものも多い。沙射は未だ、ル・アが負けたのを見たことが無かった。
 強いことだけが至上のキラ・シにおいて、ル・アの存在は部族を明るくしたことだろう。
 ル・アの元に来るのはキラ・シの戦士達だけではない。女官長も来るし、大臣や貴族、商人達も来る。
 沙射が来た当初が、稀に暇だっただけで、数日すると、書き取りをする時間などほとんど無かった。鍛練の時間以外は人と会っているか、王宮中を走り回って何か用事をこなしている。夜も、昨日とは違う書簡が寝台に転がっているので、寝る前に読んでいるのだろう。
 ル・アが床に置いた書簡は直して良いらしい。どこかに掛けている書簡は読んでいる途中か、参照するので置いてある物だから触るな、と沙射も言われた。
 読んでいる最中に、竹簡の尻を、机に並べている色皿に押しつける。赤、青、緑、紫、黒、白、朱、黄。皿にはその色の顔料がすでに溶かれていて、ル・アがそうして竹簡を押しつけると竹簡の尻にその色がつく。それをル・アが床に投げると、書簡管理人が内容の概略を外装に一筆して、それぞれの色がつけられた棚にしまうのだ。色をつけられずに床に落とされた竹簡は、もうル・アは読まないというシルシらしく、キルシュが部屋の外に持って行く。不要なものはそうして外に出されるのに、常にル・アの部屋は書簡が積み上がっていた。
 机の横には、それぞれ名前が書かれた籠が置かれている。
 良く来る大臣や女官長、商人などの名前が書いてあるのだ。大体ル・アは即時決済だが、たまに思慮時間を要するものがある場合、彼らを帰してから、返事を書いてその籠に置いておく。大事なものや急ぎの場合は、女官が持って行く。書簡を受け取るための来訪者が記帳台に名前を書くと、書簡管理人が籠に入った書簡を渡す。そのさい、ル・アに変に挨拶をしたりしない。羅季礼はするけれど、声を掛けなかった。
 挨拶だけなら声を掛けるな、とル・アが厳命したからだ。
 キラ・シ礼は歩きながら相手に近づき、両掌を広げて見せるだけだ。上位下位は関係ない。先に相手を見つけた方からする。礼をしている間も歩くし、喋る。互いに知り合いならば名乗りすら無く、直接本題に入るかそのまますれ違う。キラ・シには『挨拶の言葉』は無い。手を広げて見せるのが礼であり挨拶だ。
 羅季礼はキラ・シ礼と違って、立ち止まって相手に正対し、両手を胸で合わせて口上を述べながら腰を曲げる。された方も、上位であれば立ち止まり、手を合わせる。同位であれば、同じぐらい頭を下げる。礼は下衣が先にする。大臣と兵士程位が離れていれば、兵士は礼をしても大臣は返礼しないことが多い。誰が誰にするにしろ、歩きながら、座りながらするのは最大の非礼だ。しかも口上がいちいち長いのに、それで何か話が進む訳でもない。二カ月程付き合って、ル・アはその無駄に嫌気が差したのだ。礼をされるだけならいいが、ル・アと大臣の間柄では、それに答えなければならない。上位のものはただ手を合わすだけでいいが、立ち止まって正対する必要はある。
 ただ書簡の授受をするだけなのに、書を書く練習をやめ、読んでいた書から目を離し、喋っているものと会話をやめて挨拶をしなければならない。ただでさえ書くのは苦手なのに、その集中力を乱されるのが我慢ならなかったらしい。
 勿論、通常の書簡は、常にル・アの傍に着いている書簡管理人が書いている。直筆でなければならない書簡などもあるが、余程でない限り、ル・アは外国人である、という面を考慮され、書簡管理人の筆で通しているのだ。ル・アの筆が用を足さない、というのも大きな理由だろう。
 ル・アの部屋に入ったものは、それぞれが黙って羅季礼をし、ル・アの傍に立っていた書簡管理人が無言で返礼する。名前を聞くと、書簡管理人がル・アの机の横にある籠から書簡を取り上げて渡す。互いに羅季礼をして訪問者は去る。顔を見ないから、本人が来る必要は無い、とル・アが言ったが、大体の者はル・アの様子が見たくて本人が来る。ル・アの執務室は大きな部屋で、常に室内にたくさんの人が待っていた。
 それらも、直接ル・アに口上を述べるのではなく、先に要件を書簡に書いて持って来させ、ル・アに会う前に書簡管理人が内容を精査する。真実ル・アでないと処理ができないものだけル・アに持って来るのだ。そのせいでル・アの書簡管理人は数十人いる。賂を渡されてつまらない用をル・アに通した書簡管理人は、その場で切り捨てられた。その逆に、一見でも有用な者を通した書簡管理人は、その場で手当てが出る。みな、ル・アに有用な者を探そうと必死だった。
 用件を書簡に事前に書かされるということや、午前中に商人、大臣や有識者は午後、という面会時間などに憤慨した者達も多かった。
 山猿が礼儀も知らん、と陰口を叩かれたが、ル・アは気にしない。ル・アのその癖を知っている商人などは、無駄な前口上無しにすぐに商談に入れることを喜んでいる。
 面会時間は日の出一時(日の出より二時間後)から日の入り前半時(日の入りより一時間前)までとしているので、その前後は急用でない限り人と会うことは無い。だが、報告などの返事の不要な書簡はどんどん積み上がっている。勿論、書簡管理人がル・アに必要だと考える報告は優先的に積んでいるが、万が一のことを考え、それらを読み終わったあとに、ル・アは全部を読んでいるのだ。その間、ル・アが口走ったことは、書簡管理人がつぶさに書に起こす。それの大半は、大臣や商人達への質問だ。その場で該当者に届けられ、回答を持ち帰ってくるか、本人を連れてくる。
 沙射が驚いたル・アの質問癖は、沙射にだけではなく、余す所無くすべての人に向けられていた。特に辛巳という商人には、商売の話ではなくとも数限りない質問を送り、また細かく回答を返され、書の往復が続いている。大陸の男女比については、「自分で見聞してごらんなさい」と放置された質問だったらしい。
 その上で、毎月、『一』の着く日は終日商人優先日だ。全員と一斉に会ってル・アの目の前で競合させ、安い物、有用な物から書簡を交わす。ル・アの商談は即決だった。勿論、口上が巧かったがゆえに買ったが、変なものを売りつけた商人は、即時に断罪される。
 有用な物を買って貰うのでも根回しが必要だったのが無くなり、すぐに支払いもされる。悪徳商人は去ったが、普通の商人は喜んでいた。時節に合った良いものを持って来さえすれば買ってくれるのだ。
 贅沢品は一切買ってはくれないため、利ざやは低いが、額が大きいし、施政者御用達という看板は魅力だ。
 キラ・シは物々交換が基本なので、銭と物との交換でも後払いということが無い。今までは、月末払いや翌月払いや、年貢払いなど、後払いが多かった。その間に大臣が変われば、支払いを拒否されることすらあったのだ。それに比べれば、多少買いたたかれることも痛くはない。
 今までは根回しに二月掛かっていた商談が一日でまとまる。一日拘束されても安いものだ。
 商人が集まる所には金が集まり、技術が集まり、活気が沸く。ル・アは商談を早くする、というその一転突破で、キラ・シという恐怖のならず者が施政している政治を好転させているのだ。
 良い商人さえ味方につければ、情報はいくらでも入ってくる。反乱の情報さえ、軍内情報より早いのだ。時事切々と、ガリ・アや大臣たちと話し合って細かい法律も作っていく。
 それでなくても、ル・アには頻々と誰かが訪ねてきて話し込んでいる。沙射と庭に出ることなど、月に一度も無い。一の着く日は商人が優先なので、他の者達が少ない。終日とは言っても、商人は朝一でル・アの前に整列しているのだから。それでたまに時間が空くのだ。つまりは、午後に休みがある日が十日に一度、あるかないかということだった。
 夕方、日の入り前に鍛練をし、夕食。ル・アはもっと鍛練の時間を増やしたいようだが、今の状況ではまず無理だ。
 食事の時に話に来ることも、ル・アが嫌がらないので次々人が来る。食べながら話をすることは、キラ・シでは別段咎められることではないらしい。
 食事と言うのは楽しむ物ではなく、動けなくなるから食べる物であって、食事時間に礼法も何も無いという。山では特に、狩りをしながら木の実をとって食べるだけで『朝食の時間』という特別な時間は無いらしい。獣を取れば、その獣を食べるために焼くが、時間はことさら決まっていないし、何かをしながら食べるのが常なのだ。『食事を楽しむ』という感覚は無いという。大体、空腹を感じなければ食べないし狩りをしないので、無駄に動き回ることも無い。毎日山を回るのは、狩りよりも森の点検が優先されているらしい。
 人が訪ねて来なければ、鍛練の時以外は部屋で書を書いているか読んでいるか、沙射を口説いているか。それだけだ。遊ぶ暇などまったく無い。夕食のあとは、沙射も自分の部屋に帰るので、その後ル・アが何をしているのかは知らなかった。
 書簡管理人がいつも綺麗に捌いているのに、沙射が朝来ると、すでに床に書簡が転がっている。書棚の書も見るたびに増えている。とにかく読書量が多いのだ。それなのに、毎日女性を部屋に呼んでいる。鍛練もしている。いつこれだけの書を読んでいるのだろう、と沙射は毎朝感心した。「お忙しくて疲れませんか?」と沙射が聞いたら、ル・アは書き物の手も止めずに言った。
「行軍している時は寝る暇も無かった。今は文字の練習をする時間があるだけましだ」
 ル・アはしれっと応えていた。その間も、手は止まっていない。文字の練習など、以前にしたのは五日前だ。しかも朝食を食べながらだった。これでは上達はほど遠い。だが、本当に忙しいル・アに、その時間をねじ込むことは、沙射にはできなかったし、する気も無かった。
 下手なだけで書けているのだ。文字など、用を足せば良い。ル・アは文を生業にしているのではなく、用を果たすために文が必要なのだから。


   □ 怒りを避ける人々


 ある日、王宮を揺るがす大事件が起こった。
 沙射が、通りすがりにシル・アに髪を切られて持ち去られたのだ。沙射は腰が抜け、その場にへたり込んでいたが、麻美が悲鳴を上げ、駆けつけて来たリョウ・カからル・アに話が行ったらしい。
 沙射自身ではなく、とにかくその金色の髪が彼の興味を引いてやまないようだ。車李王雅音帑のように、沙射自身に色気を出してこられるよりは良かった。たまに来る雅音帑はとにかく、沙射と一緒に居たがって仕方が無いのだ。さすがの沙射も煩わしい。
 ようやく立ち上がった沙射がル・アの部屋にたどり着いた時、ル・アが部屋から駆け出す所だった。
「邪魔だっ!」
 怒鳴って駆けていこうとしたル・アは、自分が突き飛ばしたのが沙射だと気付いて止まり、苛々と足踏みをした上で、戻ってきた。全身から炎を吹き出しているようなル・アが近寄ってきたので、思わず沙射は後退ってしまう。
 その体は、触れば焼かれるのではないか。そんな錯覚をするほど、猛っていた。髪さえ舞い上がりそうだ。
 沙射が怯えていることに気付いて、ル・アは足を止め、大きく息を吐いた。
「傍にいない方が良かろう? 部屋に入っていてくれ。女官っ! 皇子に温かく濡らした絹と杏酒を持って来い!」
 普段に無い冷たい声で沙射に告げて、ル・アは背を向けた。だが、その声が大きい。廊下に反響してその場にいた者達の耳を痺れさせた。キラ・シの大声と言うのは室内で聞くものではない。先程よりはましだが、ジリジリとル・アの背中で熾火が起こっているかのようだ。
「どちらへ? ル王子」
 女官が部屋に連れて行こうとするのを遮って、沙射はル・アの背中に問う。
「シル兄上から、あなたの髪を取り戻してくる」
 やはり、そのことで怒っているらしい。
「わたくしの髪など必要ありません」
「必要だ。他人に髪を切り落とされては、魂がちぎれてしまう」
 暴行を受けた、ということで怒っていた訳ではなかったらしい。今までの経験からいっても、これは重大な事柄だ、と沙射は息を整えてル・アを引き止めた。キラ・シの倣いにそってル・アが動いているのならば、その先にあるものは『殺』しかないだろう。
「わたくしは、羅季人です。王子。髪を切られても、魂はちぎれません」
 沙射の声に、ル・アが立ち止まる。ややあって俯き、ガツンッ、と踵を床に鳴らした。眉を怒らせたまま振り返る。
「あなたは、髪を切られたことで、怒っては、いないのか?」
「はい。驚いただけです」
「本当に?」
「はい」
 鋭い瞳が沙射を貫くかのようだ。
 ここで少しでも髪を切られたことで憤りを覚えていれば、見透かされて、逆に、沙射にル・アの怒りが向いただろう。
 だが、沙射は本当に、怒ってはいなかった。元より、ル・アがなぜそんなに感情を逸しているのかもわからない。魂がちぎれるとか、体を傷つけられたとか……実感が無かった。
 勿論、羅季には『こん刑』と言って、髪を切る刑罰もある。だがそれは『髷を結えない』状態まで切られることであって、毛先を少し切られたことなど、問題ではなかった。シル・アも、そこまで切って行った訳ではない。
 そもそも、『怒り』という感情を、沙射は覚えたことが無い。ル・アが良く怒るのも、実際には沙射は意味がわかってはいなかった。ただ、許せないことがあるのだろう、とだけは理解している。キラ・シの倣いと大陸の倣いは違う。怒る部分が違っても、沙射はル・アを変だとは思わなかった。
 まっすぐに見つめてくる青い瞳に、ル・アが大きな息を吐いた。燃え残ったたき火に水を掛けたかのように、シュひウシュウとル・アの怒りが鎮静化していく。もう一度、ル・アは大きく息を吸って吐き、沙射の方へとゆっくり戻ってきた。
 前髪をさらりとかき上げ、その右手で沙射の左の耳元へ指を差し入れる。先程切られたので、そこにころころと転がる髪は無い。
 なぜか、沙射はル・アの体温が近いように感じた。
 いつもそうして指で髪を触られると、沙射の首や耳に沙射の髪がこしょこしょと触れてくすぐったい。それなのに今は、その髪が無くなっているので、ル・アの掌の熱が直に耳の裏に伝わってくる。
「あなたが怒っていないのならば、俺が怒る理由は、無いな……」
 ル・アがもう一度息を吐いて笑みを浮かべた時、ガタガタガタッ……と、この廊下の両端で物音が立った。ル・アの怒りを忌避したがっていた女官や役人達が、この廊下を横断することができずにいたのだ。ル・アの怒りが溶けたので、慌てて駆け抜けたらしい。ル・アが怒ると、その雰囲気が城中に伝わってみなが戦々恐々となる。
「また、女官の仕事の邪魔をしてしまった……」
 ル・アが、笑いながら沙射を部屋に招き入れた。


   □ 詫びと礼


「よくル・ビアを止めてくれた」
 後日、沙射はリョウ・カに礼を言われた。
 沙射が止めなければ、ル・アはシル・アに決闘を申し込んで殺していただろう、ということだった。
 シル・アは、沙射の髪をより合わせて腕輪を作り、身につけているらしい。またキラ・シの戦士達から嫌われたが、本人は気にしていないようだ。
「ル・ビアに血族殺しの汚名を着せたくはないからな……本当に、良く止めてくれた。シル・アが無体をして申し訳なかった。ガリ・メキアからも叱られたので、二度としない筈だ。あなたにも近づかない。それで許してくれるか?」
「わたくしは、元から怒ってなどおりません。許すも許さないも無いですよ。頭を上げて下さい」
 何があっても頭を下げないキラ・シに詫びられて、沙射の方が困った。
「シル・アは、罰として族長から今まで集めた水晶を全部焼き払われた。すまぬが、あなたの髪はそのままにされている。それを取り上げたら、またあなたの髪を切りそうだったからだ。堪えてくれ」
 水晶を全部焼いた?
 とんでもないことを言われて、沙射の方が戸惑った。売り払うのではなく、焼き払うのがキラ・シらしいと思う。
 それをル・アに聞いてみると、ル・アは当然のように頷いていた。
「俺が父上に提言した。父上が、今回の罰は何が妥当かとお聞きになったからな。兄上は、あなたの髪以外の全財産を失った。これにこりてもう無茶はしないだろう。今度はキラ・シの戦士達も、あなたの傍に兄上を近づけないよう、気をつけてくれると言っていた。今回の件は申し訳なかったが、二度は無い。本当に申し訳なかった」
 ル・アまで、また頭を下げてくれる。
 沙射の方こそ、何度も謝られて申し訳なく思っていた所へ、トドメのガリ・アが現れた。
 玉座に座っている所しか見たことが無かったので、その背の高さに驚く。ル・アより頭二つ高い。沙射は、山を見上げるような気分になった。
 大きいだけならば、王宮の近衛兵にもこのぐらいの大きさの男はいる。
 だが、違う。ただ体が大きいだけではない、立っているだけで吹っ飛ばされそうな威圧感が沙射の身の内にじわりとした冷たさを呼ぶのだ。
 この男の傍に居たくない。
 そう叫んで逃げ出したくなるような、忌避。
「父上っ! なぜこちらに? 俺の方からお伺いしますよっ!」
 座っていたル・アが慌てて立ち上がり、ガリ・アに駆け寄る。満面の笑顔だ。犬が飼い主を見つけて、ちぎれそうな程尾を振っているような雰囲気だった。それをガリ・アは手で制し、沙射に真正面に向いた。先程までの威圧感が嘘のように無くなる。
「皇子に詫びを。二の息子が、許されないことを、した。申し訳ない」
 ガリ・アが、頭を下げた。沙射の方が震えてしまう。一言一言、噛みしめるような深い声。魂のそこまで響きそうだ。
「詫びに、あれの首を持って来ようとしたら、その方が皇子は困ると聞いて、やめた」
 ル・アがそれを止めたらしい。沙射は思わず、からくりの玩具のようにコクコクと頷いた。詫びられているのは自分なのに、いやな汗が全身に沸いてくる。たかが髪を切られた詫びに、本人の首を持ってこられては、一生悪夢にうなされただろう。
「その代わりには、ならぬが、あれが一五年掛けて集めた水晶を、全部、焼き捨て、紅隆に、向かわせた。二度と会うことは無い。安心してくれ」
 ガリ・アはもう一度頭を下げて、出て行った。それだけでも、沙射は呼吸が楽になる。
 今回は特に、ガリ・アは一切の威圧をして来なかった。それなのに、いるだけで息苦しくなる。やはり恐ろしい人なのだ、と沙射は痛感した。
 気が抜けて、ふらっと倒れそうになった沙射を、ル・アが抱き留めて椅子に座らせる。
「これほど詫びを頂く必要など、ありませんのに……」
 自分が騒動の中心になっていることに、沙射は果てし無い疲労を覚えた。
「父上が、兄上の首を落とそうとしたから、一応止めた。あなたはそういう詫びを欲するようには見えなかったからな」
「ええ……ええ、勿論です…………そんなもの、必要ありません…………リョウ殿に頭を下げて頂いただけでも心苦しかったのに……」
 沙射の髪一つで実の息子の全財産を焼き払い、放逐したのだ。キラ・シの厳しさに、沙射の方が青くなる。
「紅隆にお送りになったのは今初めて聞いたが……元々シル兄上は戦士達からも嫌われてらっしゃったからな。これ幸いだと受け取ってくれ。父上の名を汚すことしかしない人だった。当然の結果だ。締めをあなたにさせてしまったのが心苦しいが、まさか、髪を切るとは考えてもいなかった」
 ル・アがギシリと奥歯を軋らせた。もう気にしていないようだったけれど、未だにそのこと自体には憤りを覚えていたらしい。これは部族としての怒りなのだろう。沙射にそれをなだめる術は無い。
「あなたがたにとって、髪というのは、それ程大事なものなのですね」
「そうだ。大事だ。この黒髪こそがキラ・シの証し。髪に白いものが交じり始めると、みな命を絶つ」
「髪に白髪……そんなことで?」
 うっかり呟いた沙射は、ル・アに睨み落とされてくちびるを噛んだ。
「髪に白いものが混じるごとに、力が無くなる。刀が振るえなくなる。確実に、死へと転がっていく。誰しも、自分が弱くなっていくことを、見ていたい者は、いない」
 強さだけが生きていく指針のキラ・シ。他人が弱いことも認めないが、自分が弱いことも、認めないのだ。弱いものに対する非常さに、沙射は眉を寄せていたけれど、自分に対してもそれだけ厳しいのならば納得できる。キラ・シにとって『弱い』ということは生存すら許され無いことなのだ。過去に、どれだけ強くても……
 羅季では、過去の英雄は老いても英雄であり発言権がある。馬に乗ることができなくなった老将でも、敬うのだ。キラ・シでは、馬に乗れなくなった時点で、死を選ぶ。その厳しさゆえにここまで強くなったのだろうが、悲しい。
「わたくしは、髪に白いものが交じっても、気付かれませんのに……」
 ル・アの見事な黒髪を指先で梳って、沙射は囁いた。沙射の手からその髪を動かさないようにル・アが振り返る。
「だから、あなたは永遠に生きるべきなんだ。沙射皇子」
 切れ長の瞳が笑んでいたので、沙射はやっと気が楽になった。
 シル・アに髪を切られたことより、そのあとのキラ・シの詫びられ方の方が沙射の精神を圧迫していたのだ。特に今の、ガリ・アの詫びは、効いた。こちらが土下座して、早く出て行ってくれ、と言いたかったぐらいだ。
 詫びと言うのは、聞けば楽になるということではないのだ、と実感する。どんなに手癖が悪くても、一応シル・アは今までガリ・アの元にいた。それを追い出したきっかけは、やはり自分なのだ。そう考えると心苦しい。自分がいなければ、シル・アはずっとガリ・アの元にいたのかもしれないのだから。
「天来の者の血を引いているのだろう? 誰より長く生を繋いで、たくさん子を成すべきだ。気に入った女がいれば言ってくれ。それは父上からも聞いている」
 なぜそんな話になっているのだろう、と沙射は目を白黒させた。
「王帝から……も……ですか?」
「そうだ、父上も、あなたの子を見たいらしい。他の者なら次々あなたの寝室に女を送り込むだろうが、誰を送っていいのかわからないから、珍しく躊躇してらっしゃるようだ」
 ル・アは軽く笑うが、沙射は意味がまったくわからない。
「なぜ、わたくしの子が必要なのですか?」
 沙射がいなくなれば、キラ・シが皇帝になれば良いのだ。
「天来の者の血は、継がねばならんだろう」
 さらさらと沙射の髪を指先で梳かしながら、ル・アは当然のように言い放つ。
「地にはあまねく人がいる。それらは勝手に増える。だが、天来のものはあなたの血族だけだ。絶やしては、世界に触りがあるだろう」
 そんな話を、沙射は聞いたことが無い。
「この大陸では、あなたの血筋が民を作り民を栄えさせたと伝えられているではないか。あなたの血筋が無くなれば、大陸のすべての命が枯れるのだろう? それは、あってはならないことだ」
 確かに、そういう伝承はある。だがそれは、曜嶺皇家を崇めるためのただの賛辞だ、と沙射は考えていた。ル・アがそれを真実『信じて』いるのかどうか、沙射にはわかりかねる。
 けれど、キラ・シは『嘘をつかない』。それは沙射にもわかっていた。嘘をつけるのならば、もっと巧いやり方はいくらでもある筈なのだ。嘘を付かない、嘘を思いつかないから、隠喩や暗喩や譬えも理解できない。直情でしかなく、優雅さが無い。速さと強さだけがすべてで、鷹揚さが無い。
 それでも、嘘は、つかないのだ。
 文字の無いキラ・シにとって、大陸の文字文化がかけがえの無いものに映ることは予想に難くない。わざわざ文字で書き記したものに嘘が混じるなど、ル・アは考えもしないのだろう。曜嶺皇家を讃える書簡を鵜呑みにしているのだ。
 だが、沙射は書にも正しくないものがあることを知っている。
 曜嶺皇家は間違いなく、大陸の者達に追われて半島の羅季に押し込められた。羅季城にはその悲しさをつづった書がたくさんある。その経緯も全部残っていた。だが、ガリ・アから送られたたくさんの書の中には、曜嶺皇家が『政務を投げ捨てて逃げた』と書かれているものがある。
 皇家は政務を投げ捨てなど、していない。
 皇家に政務をとらせなくなった時代があったのだ。ただ飾りとして座らされていただけで、国が荒れることを正せなかった。その命さえ狙われて、追われたのだ。
 大陸の人々は、すでに皇家を必要とはしていない。
 沙射はそう感じていた。だからこそ、大陸を制圧したル・ア達キラ・シが自分を重用してくれることが不思議なのだ。
「キラとて天来のものだ。キラが鉄と共に山に来たから山に人ができた。人が増えた。だからこそ、キラ・シは、キラの血を絶やすことはできない。天来の者の子孫だからな。
 あなたも、そうだろう? 天来の者の子孫だ。他の有象無象とは違う」
 近くで瞳を覗き込まれて、沙射はどう返事をして良いものか迷った。
 曜嶺の血筋だけに金髪銀髪、碧眼緑眼などが出ることは周知の事実。千年、大陸の歴史が続いても、巷にはただの一度もそれらが出たことは無い。天来の者と言われると、沙射は自分の出自を否定することはできなかった。
 キラ・シの絶対英雄であるキラも天来のもの。そして大陸の曜嶺皇家も天来のもの。その『天来』という部分で、キラ・シが自分を擁護してくれているのだ、と沙射は理解した。これが黒髪黒目の一族なら、すぐに殺されていたのかもしれない。自分の容姿に、初めて感謝した。
「父上は、賀旨の姫をあなたに目合わせたいようだ。あそこの二の姫はまだ幼い。すぐの話ではないな」
「二の姫ということは、一の姫は……」
 口に出してから、賀旨の一の姫は嫡子の磨牙鬼王子と結婚したのだと思い出した。
「一の姫は、披露目に出せないから無理だ。賀旨でも、一度も表に出ていない」
「…そう、なのですか…もう嫁いでらっしゃるからでは?」
「いや、狂ってるんだ」
 ル・アはさらっと口に出して、椅子に掛け、筆をとって文字の書き取りを始めた
「賀旨落城の折りに、父上の子を孕んで…………その子が黄色くてな………………、子供を城から投げ捨てて、自分も飛び下りようとしたらしい。一応生きてはいるし、磨牙鬼王子は妃として遇しているようだが、喋ることはできないと聞いている」
「…お子を……投げ捨て…た…………の、ですか……?」
「たまにある。鬼の子だと喚いて、母子共々死を選ばれることはな…………止めようが無い」
 そんなことをしなければ良いのでは? と沙射は言い掛けて、やめた。征服者がその土地の乙女を召し出すのは、古今東西当然のことだ。キラ・シだけがしてきたことではない。
「今、羅季の結婚のことを学んでいる。意味がわからんが、それではあなたの儀式ができないからな。
 キラ・シがするように、端から女に子を産ませれば良いという訳ではないようだし面倒臭い。父上も、あなたの結婚の儀は、ちゃんとしたいようだ。とりあえずは、賀旨のニノ姫が大人になってからだ。あと数年はある」
 そうですか……としか沙射は言えなかった。
 結婚のことなど考えてもみなかった。ガリ・アは本当に沙射の血族を残すつもりなのだろうか? 曜嶺皇家を、潰すつもりは無いのだろうか?
 沙射がふと、自分の思考に沈んだ時、とても綺麗な音が聞こえた。
「ルエルエルミーアサリサリアリ……」
 それは、書き物をしているル・アが口ずさんでいたようだ。以前にも、書き物をしていた時に呟いていた。羅季字を書いている時に、別のことを口にできるというのは凄い、と沙射は感心していたのだ。
「その言葉、良く仰ってますよね? 何かのおまじないでございますか?」
 ル・アが筆を止めずに問い返してくる。
「……何か言っていたか?」
「ええ…………えっと……エウエウイー、シャリシャリシャリ……ですか?」
 沙射の言葉に、ル・アはとても驚いた顔をして手を止め、顔を上げた。
「聞いては行けませんでしたか? それは申し訳ありません」
「……い……や。そういう訳ではない。本当に口に出してる気が無かったから驚いただけだ」
 苦笑しながら、ル・アが長い指でこめかみの辺りをかき回して髪をかき上げる。
「子供の歌だ。言葉を覚えるための。
 オールビボワールルーミアアーントアリ、ルエルエルミーアサリサリアリ……」
 一節をル・アが歌って見せた。腹から出された声に沙射がギョッとする。それに気付いたル・アが口を押さえて声を止めた。室内は廊下と違って、壁に絹を張っていたり細々と色々なものが置いてあったりするので、声が反響しない。
「部屋の中では煩いな。山で歌うと声が届かないものなんだが」
「歌を生業になさっていらっしゃるのかと思うぐらい良いお声でございましたよ」
「そうか? 大陸では歌を生業にして生きて行けるのか。それは凄いな。……ああ、あの芸人というのがそれか?」
「はい。歌だけではございませんけれど。以前、わたくしの一四の誕生祝いに、王帝が羅季に芸人の一座を呼んで下さったことがありました。歌舞音曲がそれはもう見事で、楽しゅうございましたよ。歌い手がそれはすがすがしくて、美しい声をしておりましたが、王子のお声はそれ以上でございました」
「煩かっただけじゃないのか?」
 笑いながら下から見つめ上げられて、沙射はくすぐったいような気持ちがした。
「お声の大きさには慣れたつもりなのですけれど、今のお声はさすがに……」
「向こうの山に届かないと意味が無いからな。山に住めば誰でも出る声だ」
「そうなのでございますか」
「霧が凄かったからな。自分の伸ばした手の先も見えない。そんな中を狩りに出る。声でしか仲間の位置が把握できない。声を出さずに物音を出すのは獣か他部族だ。殺して良い」
「他部族を、殺すのですか? 常に戦争を?」
「常にではない。ただ、全部の部族がそうだから、忍び寄るものは敵だ。他部族も、他の(部族の)山に行く時は声を出す。声を出すのは友好のシルシ。無言の気配はすべて敵か獣、即殺の対象だ。キラ・シの男は暗闇でも動ける。だから生き残って来た」
「ですが、闇夜に声を出せば人がいることがわかるのでは?」
「そういう時は獣の声を出す。夜なら梟、昼なら、その時の狩りの獣の声だな。先程、父上が芸人を羅季に呼んだ、と言っていたが、一四の時だけか?」
 また話が飛んだ。沙射は何か獣の声を聞かせて欲しいと思ったけれど、言い出せない。
「はい。一四の時だけでございます。盛大な芸人と、黒い服の一揃えに、素晴らしい宝玉のたぐいを、たくさん頂きました。化粧道具も、ありましたけれど、わたくしは男子でございますし、何に使って良いものやら、わからずじまいでございます」
「化粧道具と言うと、紅か?」
「はい。口紅を……」
 沙射はそこまで言ってふと、ル・アの顔に気付いた。ル・アもくちびるの端を上げて笑っている。
「それはキラ・シの元服の祝いだ。紅は、これようのものだ。だから、女物ではない」
 ル・アが、紅を描いた自分の左頬を指さす。沙射は、今の今まで口紅だと考えていた。
「紅は、後見する戦士が、新しい戦士に贈る物だ。俺も父上から頂いた。知っている限り、父上が紅を贈ったのは、俺と、兄上二人と、あなただけだ」
 俺も今年貰ったぞ、と頬を指さしてにこにこするル・ア。
 沙射は何を言って良い物か、惑うた。自分の息子にしか贈っていない物をわたくしに?
「それは……とても光栄な……ことで……ありがたき、幸せにございます……」
 まるで自分の手柄のように、ル・アが瞳を細くして微笑む。
「ん。父上はあなたの後見として、あなたに、皇帝位に即位して貰うのを希望してらっしゃるのかもしれないな。だから、『王帝』なんだ。今まで気にしたことは無かったが。そうかもしれない」
「私を……皇帝に? ……まさか……」
 皇太子の即位式すらしてくれないのに? 沙射は素直には信じられなかった。
「まだこちらの皇帝とか王帝とか、よくわかってないんだが、王帝の上に皇帝というのは、族長の上に長老がいるようなものと、考えているが、あってるか?」
「……そう、ですね。そのようなものかと」
「普段は何もせずに養われているくせに、肝心要の時だけ邪魔口を出してくる煩い奴らだ」
「そのような皇帝も有りかと存じます」
「とりあえず、キラ・シの『後見』というのは、こちらで言うと『親代わり』だ。こちらの結婚は財産相続も含まれるだろう? キラ・シには結婚制度が無い。若戦士は後援してくれる戦士についてまわって技術を学ぶ。戦士が死ねば、後見された戦士にその財産は譲られる。父上が死んだ時、その財産はあなたにも譲られる、ということだ」
「滅相も無い……」
「父上も御年取って四五だからな。そう遠い話ではない」
「四五…歳…でございますか? ガリ王帝がでございますよ?」
「どうした?」
「いえ……わたくしも、あまり存じあげないのでございますが、私が拝見した限り、四五には……」
 ガリ・アはどうみても三〇歳前後にしか見えなかった。
「それは言われた。商人がいつも言うが、キラ・シはみんな若く見えるらしい。だが、俺は下に見られたことが無いぞ」
「あなた様は当然…もうずいぶん上にお見えですよ。はい」
「あなたはずいぶん下にお見えですよ、はい」
 自分の口調を取って返されて、沙射が吹き出した。
 そして、しげしげとル・アが自分を見上げていたことに気付き、沙射はなぜか身仕舞いをぱたぱた整えてる。
「何か、わからない字でもありましたか?」
「美人だったぞ」
「はい?」
「賀旨のニノ姫は、美人だった。あなた程ではなかったがな」
「そういえば、なぜ賀旨の姫君なのですか?」
「あそこには銀髪金目の王子がいる。あなたの血筋だろう? あなたはキラ・シのように絶倫にも見えないからな、女を次々送り込んで、金髪の赤子を生ませるまでに枯れて貰っても困る……というのが父上のお考えらしい」
 そんなことを考えられていたということに、まず沙射は驚いた。
「……確か、史留暉王子、でしたか? 銀髪だという噂は聞いています。旭日の瞳というのは聞いていましたが、輝いてらっしゃるかたかと。お目が金色なのですか?」
「そうだ、銀髪で金色の目をしていた。初めて見た時は驚いたな」
 あまり聞かない噂だったが、麻美が嬉しそうに話していたのを、沙射は覚えていた。
「まさか、その王子にも、シル殿は髪を切るような暴挙を?」
「いや、それは無かった」
「では、わたくしだけですか?」
「『シルキは俺のものだ』と、俺が宣言していたから、手を出さなかったのだろう。そう言っていなければ、切られただろうな。確かにシルキの周りをうろうろしていた」
 ぱちくり、と沙射はまばたきをした。
「では……わたくしは、ル王子のものではない、と……?」
「俺のものなのか? あなたは」
「……いえ……」
 元々、誰のもの、というその意味自体が沙射はわかってはいない。
「俺のものに、なって欲しいのだがな」
 顔を寄せて囁かれて、沙射は赤くなって背を向けた。
「その王子が、ル王子のものだという確約は、何かあるのですか?」
「いや、俺も子供だったし何もしていない。父上が譲れ譲れと煩かった……ただ、俺のものだ! と言いふらしただけだ」
「それでしたら、今でもできるではないですか」
 それをしてくれていれば、髪を切られることも無かったのではないのか? 沙射は簡単にそう考えただけだった。
「……もう、子供ではないからな……」
 ル・アの方がぷん、とくちびるを尖らせる。
「しかもシルキと会ったのは山の中だった。王子だとか皇家だとか知らなかったからな。ただ、見たことも無いぐらい綺麗だったし、俺が命を助けたのもあったし、誰かに見られる前に俺のだと言い張っただけだ。
 曜嶺皇家嫡子だと最初からわかっているあなたに、そんなことはできんだろう」
 ふう、と息を吐いてル・アが苦笑する。
「俺は、いつでも、そうしたいけどな」
 チュッ、と。いつのまにか立ち上がっていたル・アにくちびるをかすめられた。
 女官が、いない。
 ル・アがいつのまにか女官を追い出していたのだ。
 つまりは……口説かれる。あの、熱い腕で抱き締められる。
 そのことを想像して、くらりと沙射は目眩を覚えた。病的なそれではなく、頭の芯が甘く痺れるような痛さだ。
「いい加減、言ってくれないか? 『あなたを愛しています』と」
 囁きながら、沙射の首から顎を両手で辿り、頬に鼻に額に、くちびるが落ちてくる。ル・アの視線が、一瞬、廊下への扉に向いたけれど、うっとりしている沙射はそれに気付けかなかった。
「あなたに……嫌われてはいないよな?」
 ル・アの問いに、沙射はこくりと頷く。
「……俺のこと、怖くはないよな?」
 こくりと頷く。
 くちびるがふわふわと意識を攫っていく。
「俺のこと、好きだよな?」
 頷く。
「俺のこと、愛してるよな?」
 囁かれて、沙射は目を開けた。
 きららかに微笑んでいるル・アが、まぶしそうな目で見つめてくれている。
「言って? 沙射。『あなたを愛してる』と」
 先程頷いたのに。それではなぜ駄目なのだろう。
 沙射はいつも思う。
「あ……」
『こんな所で何をしてる』
 廊下への扉の外で、大きな声がした。
 それは怒鳴っているのではない。元々声が大きなリョウ・カが誰何しているのだ。
 沙射は跳ね上がるように体を硬直させた。
『……っ……ふっざけるなっ!』
 沙射の鼻先で、ル・アが、キラ・シ語で怒鳴り、手近にあった竹簡を扉に向けて投げつけた。長い黒髪が沙射の顔に叩きつけられ、沙射は咄嗟によろけてこける。
 ル・アは真っ赤な顔で扉を睨み付けていた。
 そこには、これまたキラ・シの戦士が立っていたのだ。いつのまに入って来たのか、沙射はまったく気付かなかった。
『あっはーんっ。元気の良いお迎えだな、ル坊やぁ。この俺様に向かって、こんなことしていーと思ってんの? んっ?』
 どうやっても、扉にぶつかって粉々になる勢いだった竹簡を、その戦士は左手に掴み止めて笑っている。床にへたっている沙射に向かって、彼は竹簡を持ったままだけれど、両手を広げて手を振って見せた。それはキラ・シ礼の筈だが、とても和やかだ。思わず沙射も、こくりと礼をする。
 その笑顔にだろうか、部屋が一段明るくなったように見えた。ル・アも綺麗だと沙射は常々眼福だったが、彼の綺麗さは群を抜いている。目が覚めるようだ。
 髪はキラ・シのまとめ髪だ。黒いし長い。両の頬にキラ・シ紅で文様が入っているのに、そんなことが見えなくなるほど美人だった。ル・アも目が大きい方だが、彼はさらに大きい。切れ長で、ばっさりと漆黒の睫毛に覆われたそれは、白目が無いのではないかと言うほど黒目勝ちで艶々しい。彼にも髭が無かった。顎も他のキラ・シに比べて細い。これで女装をされれば、男と見るのは無理だ。
『サル・シュだ。曜嶺皇家のお坊っちゃまっ。面と向かって挨拶するのは初めてだな。よろしくー』
 にこやかにキラ・シ語をまくし立てるサル・シュ。ル・アが歯を軋らせている所に歩み寄り、へたれている沙射の手をとって引き上げた。
「えっ? 皇子、いつのまにまた倒れてっ!」
『うっわ、かわいーんっ! こんな小さいのにっこんな金色で白くてっ……うわーっ……』
「ひあっ!」
 沙射は、服の上からギュッと股間を掴まれて跳び上がった。
『男なんだ? 神秘だな。大陸目線だと、絶対女なのに。サシャに俺の子産んでほしーなーっ! 本当残念っ!』
 咄嗟に、ル・アが沙射を自分の後ろに隠し、沙射もその背中にすがりついた。驚き過ぎて涙が溢れてしまう。
『大陸の人間にしては、こういう男はそういないぞ。ル・アちゃん、頂戴?』
『ふざけるな』
『なんでル・アちゃんそんな気が立ってんのー? 邪魔したの俺じゃないよ? リョウ・カだよリョウ・カ』
『サル・シュが扉に耳をつけて様子を窺ってたから、リョウ・カが寄って来たんだろっ!』
『そりゃーだってっ! 今入っちゃやばそうだなー、って思ったから、待って上げてたんだろっ。感謝しろよっ!』
『結果が悪すぎだろっ! リョウ・カに大声出させるなっ! 皇子が怖がるからっ!』
『大声なのは、ル・アだよ。ね? サシャっ』
 ル・アの背中からサル・シュを覗いた沙射は、サル・シュに愛想を振られて、またル・アの背中に隠れた。元々、二人はキラ・シ語で喋っているので、沙射にその内容はわからない。
「王子、一応紹介しておこう。キラ・シ軍三番手、サル・シュだ。一応将軍になっている」
「曜嶺皇家沙射です」
 沙射はル・アの背中に取りすがったまま、沙射に頭を下げた。羅季礼はせず、両手を広げて見せる。ニャハーッ! と、サル・シュも沙射に再度手を振って来た。
『それで……なんの用だ。鍛練の最中じゃないのか』
『さっきシル・アの警護に何人か出せって言われてさっ! あんの馬鹿、紅隆送りだって? そんなめでたいことを仕向けてくれたサシャに、お礼言いに来たんだよーっ! サシャっ、ありがとねっ! あいつ邪魔だったんだ、ほんっとーに!』
 ニコニコニコニコニコニコ! 底抜けに明るいサル・シュ将軍に、沙射も少し警戒を解いた。
「なんと仰っているのですか?」
 何度も自分の名前が出ているのはわかる。キラ・シ語では『ありがとう』が『サシャ』なので、余計に呼ばれているように感じただろう。
「シル兄上を放逐したあなたを、褒め讃えている」
 それはどういうことなのだろう。沙射はサル・シュを見上げて小首を傾げた。
『うわん、サシャかわいーっ! 食べていい?』
『だめ』
 サル・シュが沙射を覗き込んだので、ル・アがわざわざ沙射を、自分の影の一番遠くへと引っ張った。
「サル・シュは以前からシル兄上が嫌いだった。今回の事件はあなたにとって残念だったが、結果的にシル兄上が放逐されたことで、あなたに礼を言いに来たようだ」
 詫びられたり、礼を言われたり……色々過ぎる、と沙射はくらくらした。だが、礼は受けておかねばなるまい。
 ル・アの背中から出て、サル・シュに向き直り、沙射から一礼する。
「今回わたくしは何もしておりません。お礼を頂くようなこともありませんので、気になさらないで下さい」
『礼はいらんとさ。帰れ』
 ル・アの通詞(通訳)がやたら短いように感じたが、沙射はにっこりとサル・シュに微笑んだ。
『帰れってのは沙射が言ったことじゃないだろー? ねぇねぇ沙射さー、俺の名前呼んで? そのかわいー声でっ』
 沙射の前に中腰になって、サル・シュが親指で自分の胸を指し示した。何か自分に直接言われていることがわかり、沙射がサル・シュとル・アの顔を交互に見る。
「『サル・シュ』と呼んでやってくれるか?」
「……お名前を、呼ぶだけで良いのですか?」
「ああ。呼ぶだけで良い。名前を互いに呼び合うことで、友好関係が始まる。それ以外に意味は無い」
「……では、サル将軍、ということで?」
「いや、サル・シュ、と敬称無しでだ」
「呼び捨てになりますよ」
「構わない。元々キラ・シには敬称など無い」
 他人を呼び捨てにするのは気が引けたが、求められているのならば仕方が無い。
「サル・シュ将軍、これからもよろしくお願いします」
 笑顔の彼にそう告げると、その綺麗な顔がもっと笑顔になったので、沙射も嬉しくなった。
 まるで水晶の壺に太陽を閉じ込めているかのようだ。この部屋はこんなに明るかっただろうか? そう思うほど、彼一人がいることで部屋の雰囲気が変わっている。
 ル・アも笑っていれば明るい雰囲気を持っているが、彼は桁違いだ。
『ありがとー、沙射っ! こっちこそよろしくっ! お礼のチューッ!』
 何か、サル・シュが笑顔で返してきた、と思った時。沙射は、その腕の中に巻き込まれていた。
 くちびるが塞がれ、柔らかいものが歯の間を滑り込んでくる。上顎をてろんと舐められて、カクンと膝が抜けた。けれど、唯一動く腕でサル・シュを押し退けようとする。
 その腹を、後ろから引っ張られてようやく脱出できた。
『あーっ、美味しかった! じゃねっ!』
 サル・シュは沙射を奪い返すことはせず、入ってきた時と同様、唐突に出て行った。嵐が吹き過ぎたかのようだ。
「……皇子……すまなかった。サル・シュは誰にでもああなんだ。気に……」
「うわあああああぁぁぁぁぁぁぁっっっ!」
 沙射は、ル・アに声を掛けられて初めて、叫んだ。
 くちびるを袖でごしごし拭って、その場に嘔吐する。
「どっ……どうしたっ! 皇子っ! 女官っ! 水を持って来いっ! 早くっ!」
 沙射はル・アの声も聞こえず、その場に吐き続けた。
 男に、抱き締められた。
 くちびるを、舐められた。
 口の中まで……舐められた。
 その嫌悪感に、意識が遠くなる。
 ル・ア以外に触れられたっ!
 それをル・アにも見られた。
 息も止まるような羞恥と、自己嫌悪に、沙射は意識を失った。


   □ あなただから


 沙射は、彼にあてがわれた自室で眠っていた。
「ああっ! 沙射様っお目覚めですかっ! 良かったっ良かったですっ! 御気分はいかがですか?」
 上体を少し起こしたけれど、目眩を覚えて、また、ぱたりと枕に頭を落とす。
「お起きにられないで下さいまし。嘔吐なさって大変だったのですよ。うがいなさって下さいまし」
 麻美が持ってきてくれた水で口をゆすいで、沙射はようやく目を開けた。
「わたくしは……どうした…………っ……!」
 問うてから、ル・アの部屋で倒れたことを思い出した。
「ル・ア王子のお部屋でお倒れになられたようです。ル・ア王子が、沙射様をこう……抱き上げてお連れになりました」
 くちびるにかさぶたができていて、喋ると引きつる。
「くちびるに怪我をなさっておられます。それと、嘔吐されたとか? 何をお召し上がりになったのですか?」
 麻美が、沙射の額を温かい濡れ絹で拭ってくれた。それに安堵して力を抜く。
「ル・ア王子が次の間でお待ちですが、お通ししますか?」
「えっ? いつからお待ちです?」
 沙射が窓を見ると、薄明るい。夕食の前だった筈だが、この太陽の角度は朝日だ。人を訪ねる時間ではなかろう。
「昨晩から……、山ほど書簡をお持ちなって、沙射様が起きるまでと、ずっと読んでらっしゃいました」
「は……やく、お通しして下さいっ! 起こしてくれれば良かったのにっ!」
 沙射は慌てて起き上がろうとしたが、くらりと目眩がした。麻美に、寝台へ押しつけられる。
「お夕食を召し上がってらっしゃらないのですよ。それにお昼ご飯も嘔吐されたのですからね。すぐにのど越しの良いものを持って来て貰いましょう」
 麻美と入れ代わりにル・アが入ってくる。ややあって麻美も慌てて戻ってきた。不躾にル・アを睨み付けて手を揉み絞っている。
「麻美、わたくしが体調を崩したのはル王子のせいではありません。心配せずとも良いのですよ」
 沙射の体を寝台の枕元に寄せかけて座らせてくれる麻美。ル・アに対して警戒し、ピリピリしている。
「……そうなのか? 突然倒れたから、何か不味いものでも食べたのかと心配したが」
「王子も、一晩中次の間にいらっしゃったとか。御心配掛けて申し訳ありません」
「書を読む場所が変わっただけだから、それはいいが。本当に、食事のせいではないのか? 言ってくれなければ、次も同じものが出たら倒れるぞ」
「いえ……その…………」
 ル・アが寝台に座り込み、沙射の顎を右手で取り上げた。顔を覗き込むその無礼な仕種に、麻美が角を生やして毛布をばたばたと仰いだが、ル・アはまったく気にしていない。
「くちびるを怪我していただろう。血を吐いたのかと、慌てたんだ」
 青い顔をして……と、手を離してくれたル・ア。麻美がいなければ、そのまま口接けてくれただろう。
「倒れた理由がわかっているようだな。どうしても言いたくないのならば仕方ないが、次を防げなくては困る。あんなびっくりすることは嫌だ」
 沙射は麻美を見て、出て行くようにうながした。渋々出て行った彼女を見送って、沙射はル・アから視線をはずす。
「サル将軍に口接けられたからだと……思います」
「俺とは平気なのに?」
 真顔で何気なく問われた言葉に、沙射は全身が噴火したのかという程熱を感じた。
「それはっ……あなただからっ!」
 咄嗟に顔を上げた沙射は、ル・アも真っ赤になっているのを見てしまった。沙射も、一瞬で目の前が真っ赤になって、胃の腑がキュウ、と縮まる。
「俺、だから?」
 ル・アがすぐ傍に来ていた。長い指が両方から沙射の首に差し込まれ、金糸をあやしていく。
「あなた……だから………………」
 イい……のに……沙射のくちびるの傷を慮ってか、わずかに触れるだけの、口接け。右頬に、左頬に、顎に……
「サル将軍がいなくなった時…………とても………………嫌だったんです……息ができなくなる程……」
「悪かった。サル・シュは悪気がある訳じゃないんだ。嫌がらせでもないし…………あれが普通だから……気に入った人間には、ああなんだ……」
「でも……いや……だった…………の……です……」
 スン……と、鼻をすすった沙射に、ル・アが頬ずりした。
 かわいい、かわいい。そんな心が透けて通るような触れ方で、沙射はふわふわと気分が良くなってくる。
 紅の臭い。ル・アの匂い。
「あなたに……見られたのが…………恥ずかしくて……」
「悪かった…………もう、二度とさせない……」
 沙射は、いつのまにか寝台に横たわっていた。上からル・アに口接けられ、頬を撫でられ、髪を梳き通される。
 立って抱き締められるのとはまったく違う、感覚。足も腰も胸もル・アと密着して……
 服なんて無ければ良いのに……そうすればもっとル・アの傍にいられるのに……沙射はそう思って、そっとル・アの背中に手を回した。
「愛してる、沙射…………言って、あなたも……」
「……ぁ……んっ…………ル・ア……あ……」
「お粥を作って頂きましたよっ! 沙射様!」
 当然のように、麻美が入ってきた。ル・アが跳び上がるように寝台から立ち上がり、入り口を振り返る。
「ル・ア王子様の分も、ございますよ。御一緒されますでしょう?」
 麻美はニコニコしていたが、目が笑っていない。女官が寝台の傍にくるくると小さな円卓を転がしてきた。白い絹を卓に掛けて、椅子を置いてル・アの席を作り、食事を並べていく。沙射は麻美が粥を寝台に持って、ル・アの分は、ル・アがいつも食べている焼いた鳥と、羹(スープ)だ。
 ル・アは大きな息を吐いて椅子に座り、沙射が介添えされているのを見ながら食べ始めた。
「どうしてなんだ……」
 小さく呟いたル・アの声が、沙射にも聞こえて、笑ってしまった。


   □ 二二三の愛の成り立ち


 沙射がル・アの部屋を訪れると、女官が部屋の外に三人立っていた。常ならば書簡の授受や灯の手配、茶を淹れるなどのために、必ず部屋の中に居るのだ。
 部屋の中に居るのは、小姓のキルシュと、数人の書簡管理人。ここに、政務が始まると客が詰め掛けてくる。隠れて会いに来る客は夜来るので、そういう配慮は無い。特に商人は顔を付き合わさせて、安い価格を出させるのが狙いだ。
「女官を外に出されて、どうなさいました?」
「女が目に入ると気が散る。以前からそうだった。外で待たせれば良いのだ、とようやく思いついただけだ」
 ル・アは書簡を裁きながら、かなり苛々しているようだ。ガチガチと竹簡を捌くのに音を立てるし、その音にまた気が立っている。落ち着けば、ル・アはとても静かで物音を立てない。だが、最近のル・アはずっとこうだ。
「女は八人居れば、必ず一人は孕み月の者がいる。朝からそんな匂いを振りまかれてたまるかっ」
 どうやら、今日ル・アについた女官の中に該当者がいるらしい。他の者は入れれば良いのにと沙射は思ったが、以前から、ル・アは女官に世話をされるのを嫌がっていた。最後の我慢が切れたのだろう。
 こんなに神経をいらだたせているル・アを見るのは初めてだった。
「そんなに苛々されるのでしたら、用を済まされればよろしいのですよ」
「朝からか?」
「時間が関係あるのですか? 政務に間に合えばよろしいのでしょう?」
 ル・アは、珍しく書簡を投げ捨て、頬杖をついて沙射を見上げた。そして立ち上がり、大きく息を吐く。
「あなたがそういうのならば、して来る。片づけておけ」
 ル・アは、まだ苛々した雰囲気を漂わせたまま部屋を出て行った。外で女官の悲鳴のような声がしている。どうやら無理矢理連れて行ったらしい。一時(二時間)後、晴々した顔でル・アが帰って来た。
「苛々される前にこれからはそうされるべきですよ」
 ル・アが落ち着いたので、沙射は頷いた。あのル・アの傍にいるのは苦痛過ぎる。
「ああいうことは夜することだと言われたんだ。朝からすることは考えていなかった」
「夜は時間があるからでしょう? 朝でも昼でも、時間があるのでしたら、したいことはさっさとなさるべきです」
「あなたは本当に……」
 ル・アがクッ、と喉で笑った。
「知ってて言っているのか、知らずに言っているのかわからんな」
 書簡を繰りながら、ル・アはなおも笑っている。もう竹簡を繰るのに音を立てない。沙射は安堵した。
 最近、とみにル・アは苛々することが多いのだ。周りから見れば、沙射を口説き落とすことができないからだ、というのはわかるが、沙射がそれに気付いていない。
 のべつ幕なしに沙射を口説くようになったが、のべつ幕なしに政務に追い駆けられているル・アにそんなに時間がある訳でもない。沙射を口説いている時にリョウ・カが呼びに行くと、石を投げるようになった。次はキル・シュが来た。それでも石を投げるので、女官が呼びに行かされるようになったのだ。
 以前、沙射が王宮に来た時の大臣の静かな反乱。あれが最近裁判で結審して、六五〇人程が連座することになった。政府要職の者達でも十数人居る。それだけの空席を埋めるための手間が、ル・アにのし掛かって来ているのだ。それに、ル・アの予想通り、反乱が徐々に増えてきていた。
 沙射を口説く時間が無く、沙射も応える機会が無くなっていた。
 一刻でも執務室を抜けると探されてしまうのだ。夜は夜で密談をしているらしく、女を呼ぶ暇も無いらしい。ここ三日、ル・アは寝ていなかった。
 もう、リョウ・カやキル・シュではル・アを呼びに行くことができない。ただ執務室に呼び戻す為だけに怪我するのでは割りに合わなかった。最初の挨拶で、『たまに殴るから避けろ』と言っていたル・アの言葉を沙射は思い出す。
 本当に、ル・アは手が早い。沙射はまだ一度しか殴られていないが、ちょこまかとル・アの傍にいるキル・シュは頻々と殴られていた。子供だからか思慮が足りないのか、ル・アの機微を追いきれていないのだ。今何かをしたらル・アは必ず切れる、という時に、決まってル・アの邪魔をする。殴られて当然だ、と沙射でも思った。
 ル・アが好きなのだろう。とにかくル・アの傍にいるのだ。ル・アが自分の方を見ると、パァッと笑顔になる。用事を言いつけられると、嬉しそうだ。端仕事はなんでもするので便利だが、僅かに騒々しい。
 ル・アが椅子を引いた時にすぐ後ろにいて、椅子を引けなかったル・アが左肘を振り上げてキルシュを払い飛ばしたり、ル・アが筆に墨をつけようとした時に硯に水を足そうとして手がぶつかったり……さんざんだ。筆で喉を突き上げられて、三日ほど声が出なくなっていた。喉に刺さらなかっただけ、力は抜いていたらしい。
 だから、リョウ・カは女官の背中を押して叫ばせる。
「ル王子っ! 面会のかたがいらっしゃいましたっ! お早くお部屋へお戻り下さいーっ!」
 石は飛んで来なかった。一応、ル・アも女性に手を上げはしないのだ。
「女は大事だ。女しか子を産めない」
 庭で食事をしながら、ル・アは眠たそうに沙射に応える。
「女はすぐに死ぬから、とにかく触るな近づくなと言われて育った……傍に居られると気が気でない。戦場でずいぶん慣れたと思ったが……こんな狭い部屋で傍に付かれるとやはり嫌だ」
 戦場の賄いに入っている女性達は、大丈夫だったらしい。
「子を産める女を死なせた原因が男なら、その男は皮を剥がれて崖に吊される。極刑だ。あってはならないことだ。最低に不名誉なことだ。それは子供でも戦士でも同じ。キラ・シの男として、あってはならないことだ」
 久しぶりに、食事時に誰もいない。最近では珍しいことだ。ル・アは食べながら眠っているように見えるが、喋っている。
「そのように大事になさっているのに、女性と『終(結婚)』は無いのですか? それが不思議です」
「女と『終』になってもむなしいだけだろう」
「なぜでしょう? 一生女性と添い遂げることができるのではないのですか?」
「女は毎年子供を産んですぐに死ぬ。『老婆』なとどいう言葉、キラ・シには無い。腰が曲がるまで女は生きていない。村に連れて来られて十人も子供を産める女は珍しい」
「村に連れて来られて? とは……」
「他の村から女を攫ってくるんだ」
 ル・アはあっさりと言い放った。まるで、飲茶の卓から蒸し鶏を皿に取り分けるのだ、というように。質問をされたことで起きたらしい。黙っていれば良かった、と沙射は思った。眠たいのならば寝るべきだ。
「女は、最初の歳、連れて来た男に権利がある。それで子を産めば、次は武勇を立てた男だ。そうして、死ぬまで違う男の子を産み続ける。大体は、八人ほど産めば、死ぬらしい」
 はぐはぐと箸を進めて、ル・アは言葉を繋ぐ。眠気は覚めてしまったようだ。それとも先程本当に寝ていたのだろうか。
「大事にしてるのにな。女は寒い外には出さないし。仕事もさせない。女に触れられるのは族長の許可があった時だけだ。血の道が引いたあと、三日ごとに一度ずつ三度。翌月の血の道が来なければ孕んでるから、そのまま奥で温かくするために一杯毛皮を掛ける。だが、一〇年もせずに大体死ぬ。八人目を産む頃には、自分の名前も言えなくなるらしい」
 大陸の女は強そうだ。あんなに細いのに……と呟いている。宮廷女官になるには容姿や身分も条件になるので醜女や極端に太った者はいない。
「それは…………もしかして、女性はその一〇年の間、ずっと室内に?」
「そうだ。温泉の湧く洞窟がある。一番大きな所を女の館として、使っているらしい。外は寒い。体に悪い」
「昼も夜も、ずっと洞穴の中でございますか? そこは、広いのでございますか? たとえば、走り回れるぐらいには?」
「そんな広さは無いな。湯が沸く洞窟だ。村で一番温かい所だ」
「ル王子……それは、わざとに女性の命を縮めているようにしか思えませぬよ」
「なぜだ? みんなそうしてきた。山がどれだけ寒いか知らないから言えるんだ。うっかり居眠りした歩哨が凍死することもあるんだぞっ。そんな所に大事な女を出せるかっ!」
「人間、動かなければ退化します。歩かなければ足腰が弱ります。そんな体で毎年子供を産めば、それは一〇年もたないでしょう。しかも、そばに発狂した者がおれば尚更です。適当に仕事はした方が、女性の体にもよろしいのでございますよ……特に、歩かなければなりません。大陸では毎年子供を産んでも、女性は四〇を超えて存命でございますよ」
 眉を寄せた沙射に、ル・アは居心地悪そうに視線を逸らした。そんなこと俺に言われても……という顔をしている。珍しくまっすぐ言い返して来ないのは、正当性を見つけられないからだろう。ル・アが山に居たのは四歳までだと言っていたから、すべて伝聞だ。ル・アにどうできるものでもない。
「昔は女の足の腱を切ったという話も聞いたな」
 沙射が大きな溜め息をついた。聡いル・アは、言葉に出ていない沙射の言葉を読み取ったのだろう、なぜか追い詰められた気分になっているらしい。
「でっ……ではっ、大陸では女をどのようにしてるのだ」
「普通にしてますよ」
「普通ってなんだ」
「普通です。男性のような力仕事をしないだけで、普通に生活していますよ」
 沙射は麻美から、麻美の母がどうしていたこうしていたという話を良く聞いていた。妊婦がどうするのかもそれで知っているのだ。
「……孕んでもか?」
「はい」
「それで流れないのか?」
「大体の女性は大丈夫のようでございますよ。無理な力仕事などすれば別かもしれませんが。身重の体で街を歩いている女性を見かけませんか?」
 沙射の問い掛けに、ル・アは口元を押さえて深く考え込んでしまった。視線があちらこちらをうろうろする。
 まず考え込んだ時に左に視線を逸らし、それでも考え込んだら左下を見て、左上を見て、右上を見て右下を見て、まだわからなければ沙射を見る。彼にとって難しい質問を沙射がした時の癖だ。最期に沙射の顔をまじまじと長い間見ている。沙射の方がいたたまれないのだけれど、その視線があまりに強過ぎて視線をはずないのだ。
 今も、また。うろついた視線は沙射に行き当たり、ずっと沙射の目を貫いている。
 沙射は何度か、この王都で街に出して貰ったことがあるけれど、いつでもどこかで身重の女性を見た覚えがあった。
 実は幽閉生活の沙射も、妊娠中の女性を初めて見たのはこの王都だ。ただ、文献でどうなるかは知っていたので疑問には思わなかったけれど、その大きな腹に息が詰まるほど驚いた。何度見てもあの体で動ける女性は凄い、としか思えない。キラ・シでもそう思って動かさないようにしたのだろう。男の腹があそこまで大きくなれば、男は動くことはできないだろうから。
「見たことが無い」
 長い長い間考えて、ル・アはそう言った。
 そんな筈ございませんでしょう、と沙射が言いかけた時。
「いや、孕んだ女がどうなるのか、知らない」
「三〇人もお子がいらっしゃってですか?」
 まるで責めるような口調になってしまった、と。言ったあとで沙射は自省した。だが、ル・アはそれ程気にはしていないようだ。
「女のそばで大声を出すな、と言われるから。そばに寄ったら流れるから、女のそばに行くな、と言われて育ったんだ」
「ああ……はい」
 思わず納得して沙射も頷いた。
 ル・アは、他のキラ・シに比べると大人しいが、身振り手振りが速いし、元々声が大きい。その上、自身に独特の迫力がある。そういう方法が女性を大事にしている、と考えている部族の間では、女性を騒がせる存在とみなされても仕方が無かったのだろう。
「女に会ったのは大陸に来てからだ。この城でも、近寄ると女の寿命が縮みそうだから、極力傍に寄ってない」
「三〇人以上もお子がいらしてそれは通らないでしょう」
 きっとル・アの『傍に寄る』の尺度が自分とは違うのだ、と沙射は考えを巡らせる。
「いや……だから。この城は女ばかりじゃないか。避けて歩いたってどこかで女にぶつかる。孕み月の女がいるとこう…むらむらっと自制が効かなくなるんだ。特に寝不足だと、たまらない」
「…わたくしに弁明して頂く必要はございませんよ。王子を責めてはおりません」
「孕んだあとは女館の……後宮ってとこに入れていたから、そのあとは知らない」
 思わず、沙射は鼻で笑いそうになった。両手で顔を隠して笑いをこらえる。くちびるを尖らせてぶつぶつと呟くル・アが、小さな子供のように見えたからだ。
「俺の子だ、と言って赤ん坊を見せにこられたのが三〇人ばかりいる、というだけだ。数も数えていない」
 このあと、何かのおりに沙射はリョウ・カに訪ねていた。
「ル王子のお子様がたはどちらにいらっしゃるのですか?」
「なぜそのようなことを聞く」
 キラ・シは、疑問を口にした時に語尾が上がらない。問い詰められているのかと沙射は最初、不気味に感じたものだった。
「お子様が三〇人ほどいらっしゃるとお聞きしましたので、どうされていらっしゃるのかと思いました」
「ル・ビアの子は、この王宮に入ってからだけで、二二三人だ」
「………………王子は、三〇人と仰っていましたよ?」
「忙し過ぎて忘れているのだろう」
 あまりの数を言われたので、子供の行き先を沙射は聞き忘れた。だが、その驚きはあとのことだ。この時点では知らない。
 ル・アはカツカツと箸を運んで肉を口に入れていた。
「赤様のお名前は?」
「女に任せている」
「キラ・シの伝統の名付け方法などは無いのですか?」
「あるにはあるが、別に大陸で産んだ子供にそれを適用しなくても良いだろうと父上が仰っていた」
「つまりは……男親が名前をつけるのが普通だということでございますか?」
「……そうだ」
 またル・アが視線を逸らした。そして沙射を見て、言い放つ。
「父上が良いと仰ったんだから、良いんだ!」
「責めてはおりませんよ」
 ついに沙射は笑ってしまった。ぷー、とくちびるを尖らせているル・アが、まるで拗ねた子猫のようにかわいらしい。
「何か文句を言いたげな口調ではないか」
「文句というか……ル王子のお口から出るお言葉がすべて、わたくしは初耳のことばかりで、興味深いだけでございますよ」
「なんだか、俺ばかり喋ってるな。教育係なのだから、本当ならあなたの方がたくさん喋るべきではないのか」
「羅季語の授業でございますよ。ずいぶん流暢になられました」
「ああそうか。そうだな……うん、ずいぶん上達したな」
 褒められて、素直にふふん、とル・アは上機嫌になった。
「まぁ、だから……女を愛しても悲しいだけだ。女と『終』は無い」
 最初の話題を思い出したらしいル・アが、唐突にそう言った。
「同じ女を所有できない。他の男の子を産んだ女は愛せない。所有権はどんどん移るからな。心を残せない。だから、慰安は男に求める。男なら共に生きられる。共に戦える。共に助け合える」
「ではガリ王帝もでございますか? ル・マ様に愛を感じていらっしゃらなかったと?」
 沙射は不思議に思って聞いた。
 親子関係が希薄に見える。
「……父上のことは知らない。キラ・シの男は一般的にそうだ、というだけだ」
 ル・アはまた、沙射から視線を逸らした。
「親子、は当然ある。だが、子供の親が死ぬ場合も多い。だから、族長筋の子供以外は子供館で全員一緒に育てられる。全員一律に戦士となるための教育を受ける。
 たまに父上がお相手をして下さることがある。父上の剣筋は素晴らしいぞっ。本当に耳鳴りがするんだ。父上が本気で剣を振り下ろしたら、体に当たってはいないのに目眩を起こして立っていられなくなる。しばらく耳が聞こえなくなるしな。剣が届く筈の無い場所の物が切れて落ちる。父上が風を操ると言われるゆえんだ。戦場では味方の誰も父上に近づかない。その剣風の餌食になるからな」
「戦場での王帝をご覧になったことが? 伝説になってらっしゃいますものね。王帝の太刀捌きは」
 沙射の問い返しに、ル・アはまた視線を逸らした。わずかにくちびるを噛む。
「無い」
 ル・アは泣きそうな目で皿をつついた。
「父上は、まだ俺を戦場に出して下さらない……だから、まだ髪が結えない」
 箸を持っていない手で、肩に掛かる髪をいじる。
「俺の歳で結ってないなんて、みっともない……」
 子供が口笛を拭くような表情で、ル・アは箸を置いた。その視線が、沙射からその後ろに伸びている。沙射が振り返ると、部屋を出た所でリョウ・カにせっつかれた女官が、何か叫ぼうとしていた。客が来たのだろう。
「ル王子はまだ王都にいらっしゃるのですか?」
 戦場へは、さすがに自分はついて行くことはできない。沙射はそう思って聞いただけだった。
「俺だって行きたいんだっ!」
 突然怒鳴られて沙射は息が止まった。
「ついこの前、甚枝で小さな反乱があった。王都からも軍隊を出したのに、また俺は置いてけぼりをくらったんだっ! どうしてだっ! もう元服してるしっ、父上ほどではないが、リョウ・カにだって三本に二本は勝つのにっ!」
 腕を振り回して大声で喚くル・ア。だらだらと喋っていた彼に気を抜いていた沙射は、最初の方の言葉が聞き取れなかった。
「俺の歳で髪を結ってないなんて俺だけだぞ…………みっともない……」
「王帝はル王子がおかわいくて、怪我をして欲しくないのですよ」
 また何か喚こうとしたル・アが、一瞬で静まった。ゆっくりと、沙射を睨み付けて、くる。
「それは大陸の考えか? あなたの考えか?」
 その視線が、以前、食卓で殴られた時のものと同じだ、と沙射は気付いた。
 何か、ル・アの逆鱗に、触れた、らしい。
「…………大陸の……考えです……」
 沙射は言い繕いをせず、本音を告げた。
「そうか」
 ル・アは小さく息をついて、沙射から視線を逸らした。どうやらル・アの譴責をくぐり抜けたようだ。それに安堵した瞬間、沙射はカクン、と膝の力が抜けた。体が恐慌を来していたらしい。
「どうした? 目眩でもしたのか?」
「……少し、緊張したようでございます」
「緊張? なぜ?」
「あなた様に、……今度こそ、殺されるかと……」
 慌てて椅子から立ち上がり、抱き起こしてくれたル・ア。女官が叫ぼうとしているのをル・アは手を上げて止めさせた。
 そして、沙射の顔を見て、にやり、と笑う。
 今まで、沙射が見たことも無いほど、淫らな、顔で。
 接吻できるぎりぎりまでくちびるを近づけて、沙射の顔の上で囁いた。
「殺すぐらいなら、この体、俺のものにする」
 息の触れる距離。睫毛の生え際まで見える、黒い瞳。
 笑っている、ル・ア。
「あなたが泣き叫んで許しを請うても、やめたり、しない」
 美しい、男。
 その黒い瞳に、沙射は吸い込まれていくようだった。
「…だって………あなたは俺に…殺されるのだから……」
 ゾクゾクゾクゾクゾクッ……と、足元から震えが走ったのに、沙射は目を固く瞑った。顔の上でクスクスと笑い声がする。今までル・アが座っていた椅子に、丁寧に座らされた。
「嘘でも冗談でもないが、そんなに愚かではないだろうから心配しなくて良いさ。そんな事態にならなければ良い」
 ル・アは笑いながら、部屋へ歩いて行った。
 ポツン、と沙射だけが庭の卓に残される。
 嘘でも冗談でもないのですかっ!
 なんの慰めにもなっていないことを言われて、沙射は余計に震えが走った体を抱き締めた。
 じくり、と震えている体の一部が灼い。
 熱いのに、自分の体を抱き締めた。
 その熱が、少しでも、逃げないように……と。
 先程、くちびるのわずか向こうで囁かれた。
 体の中まで透かし見られたかのような視線。
 ル・アの息が掛かり、ル・アの体温がわかるぎりぎりまで体を寄せられていた。
 毎朝、ル・アが書き足しているキラ・シ紅の臭い。甘苦くて、喉に引っ掛かるような、臭い。黄色い皮膚の匂い。黒い髪の匂い。
 美しい、男の、匂い。
「わたくしは、あなたを……ル・ア、愛して……います…………きっと……」
 沙射は口に出してみた。
 涙が溢れて、そっと天を仰いだ。


   □ 罪を背負う


 どれぐらい沙射は庭に一人で居たのだろう。いつもならル・アと一緒に部屋に戻るのに、ずっとここにいた。
 狭い部屋に戻る気にならなかった。
 執務室のル・アは、仕事をしている。
 ここで沙射の前に居る時は、笑ってくれる。
 ここでのル・アと、沙射は時間を過ごしたかったのだ。
 別段、ル・アの執務に沙射は必要ないので、ル・アが部屋に戻れば沙射は呼ばれなかった。
 皿も下げられ、掛け布も替えられた。沙射用に茶器が用意され、菓子が並べられる。
 栗餡の小さな饅頭だった。山には小豆が無かったらしく、ル・アは小豆餡を嫌がったからだ。山で甘いものと言えば栗と果物だと言っていた。羅季の豪華な料理があるのに、ただ焼いただけの雉が好きだった。
 沙射のために羅季様の料理が用意されているけれど、ル・アの前には焼き肉だけが並べられていた。豚も牛も嫌いで、鳥や兎しか食べない。キラ・シは大体そうだった。口が安物なんだよ、と陰口を叩く者達もいたが、豪華な料理を好まないことで評価を高くしている大臣達もいたのだ。
 花などを食べる癖に、蜜を使った菓子を、ル・アは好まなかった。砂糖が嫌いらしい。甘すぎて嫌なのだとか。
 沙射は、栗餡一つで、そこまでル・アのことを考えている自分を振り返って、笑ってしまった。以前は饅頭に何も思い出など無い。
 人と出会うと言うのは、こういうことなのですね、と実感する。
 その人が好きなものを好きになる。
 その人が見たものを見たい。
 その人と一緒に居たい。
 その人に、触れて欲しい。
 その人に、触れたい。
「おっ! 栗餡かそれっ!」
 いつのまにか、ル・アが出てきて椅子に掛けた。沙射の前にあった饅頭をパクッと口に入れてしまう。女官が慌てて、他の菓子を並べに来た。
「お客人はお帰りになったのですか?」
「ああ。今日は『一の日』だからな。商人は朝来たし、そうそう客はいない」
 もう一つの菓子をル・アが口にほりこんだ時、甲高く、鳥が二度鳴いた。
 ル・アが沙射に背を向けて、指笛を鳴らす。それは先程聞こえた鳥の声に似ていた。また、あちらから鳥の声がする。それにル・アは応えなかった。
「……指笛で、会話なさって、らっしゃったのですか?」
「そうだ。面白いことがあるから、来い、と言っていた」
「おでかけにならないのですか?」
「せっかくあなたとここに居るのに、よそに行ってどうする。この時間を作るためにどれだけ苦労してると思ってるんだ」
 また、庭を歩くのだろうか、と沙射が王宮とは反対側を眺めた。
「しばらくは口説かないから、楽にしていてくれ。今、あなたと心が通ったら、政務を投げ出すに決まっているからな。とりあえず、今回の反乱が落ち着いて、次の大臣達が決まるまでは、何をしても邪魔されるに決まっている。ならば、ここであなたと菓子を食っている方がいい」
「鍛練を、なさればよろしいのに」
「あなたと、菓子を食っている方が、いい」
 ル・アは、手に持っていた菓子を半分にして、沙射の口元に持ってきた。あーん、と自分が口を開ける。沙射がおずおずと口を開けると、ぽん、と半分になった菓子が転がってきた。ル・アもその片割れをもぐもぐ食べてにこにこしている。口の大きなル・アには一口でも、沙射の口にはそうならない。口一杯になって、むぎゅむぎゅ、と必死で嚥下した。
 くちびるに当たったル・アの指の感触が、ずっとくちびるにあって、ドキドキする。
「あーん」
 やっと沙射が呑み込んだら、俺にもして? と、ル・アが親指で自分を指さして口を開けている。沙射も、菓子を三分の二程に割って、大きい方をル・アの口に入れた。指先がル・アのくちびるに触れて……思わずうっとりしてしまう。
「わたくしも、キラ・シの言葉が喋りたいです」
 沙射は、身を乗り出してル・アに懇願した。
「王子の、そのままの言葉で、お話がしたいです」
 ル・アは羅季語が上手だけれど、たまに反応が遅れることがある。羅季で体験したことは羅季語で表現するのが簡単だが、山で体験したことを羅季語で表現するのは難しいらしい。
 沙射に羅季語で気さくに話しかけてくれるけれど、サル・シュやリョウ・カ、キル・シュと羅季語で喋っている時のそれとは笑顔の質が違う。
「あなたがキラ・シ語を覚える必要は無い」
 ル・アは、饅頭を嚥下してしまってから、こちらも前のめりになって沙射と見つめ合う。
「あなたは俺の教育係だろう? 俺が羅季語を覚えたいんだ。あなたの方が先にキラ・シ語を覚えて、俺を甘やかしそうだから、駄目だ。覚えなくていい」
 そういえばそうだった。分不相応な願い事をしてしまったことに気付いて、沙射は内省する。指先が寒くなって、握り合わせた。その手に、黄色く長い指が掛かったので、顔を上げる。
 手が、温かい。
 ル・アが、沙射を見つめてくれていた。
 口接けができそうな程、近く。
 紅花の匂いがする。
「羅季語をあなたほど使えるようになったら、羅季語でキラ・シ語を教えてさしあげよう。だから、早くもっと羅季語を教えてくれ」
 早く早く、と急かすル・アに沙射は苦笑した。
「今でも十分だと思いますが、それ以上何を勉強なさりたいのですか?」
「羅季のすべての書が読みたい」
 歌うようにル・アは呟く。沙射の手は、握られたままだ。
「特に、曜嶺皇家が千年も統治していた時の文献を読みたい」
「古文書を、でございますか? それはまた、古羅季語になりますので、この字ではございませんよ? 今様にずいぶん、字が簡略化されてありますから」
「そうなのか? しかも、この難解な字画で簡略化されたあとなのかっ! ………………あー、でも、今のままでもまだ読めない本があるから、とりあえず今様の羅季語を先に覚えないとな」
「どの分野の本をお求めでございますか?」
 この距離なのだから口接けてくれても良いと思うのに。女官がそこで見ているからか、ル・アはこれ以上近づいては来ない。沙射の掌はもう、ル・アの掌に隠れて見えなかった。
 温かい……
「どの分野というのは無いな。端から読んでいる。文字とは凄いな。あれだけの事柄を口伝で伝えようとすれば一生掛かっても覚えきれぬし伝えきれぬ」
「なぜ古文書をご覧になりたいのでございますか? もう、羅季人でもそうそう読み返したいと思う者はいない文献でございますよ」
「平和だったのだろう?」
 ル・アは初めて沙射から瞳を逸らし、空を見上げた。そしてまた、沙射を見つめて、微笑む。
「曜嶺皇帝が統治していた時代は、平和だったのだろう?」
「…………ガリ王帝が統治なさる寸前の二百年ほどに比べれば、そうでございますね」
「だからだ」
 だからと言われても、その言葉がどこに掛かるのか、沙射にはわからない。
「戦など、無いにこしたことは無いんだ」
 戦士であることにこだわるル・アがそんなことを言うのに、沙射は素直に驚いた。
「好戦的な俺がそんなことを言うのがそんなに意外か?」
「……あ……いえ……………………はい」
 戸惑った沙射に、ル・アが顎を引いて笑う。そうすると上目づかいになって、尚更黒い瞳の艶が際立った。
 一端沙射の手は離され、ル・アが椅子を沙射に近づけて、また沙射の手を取った。席が近づいたために、今度は卓の上に二人で肘をついても手を握って居られる。ル・アは完全に王宮に背中を向けて、沙射を見つめていた。ル・アの体の陰になって、握っている手は見えないだろう。
「戦をすれば人が死ぬ。女が産まれていれば戦などしなかった。周りの部族を滅ぼすことも無かった」
 ル・アは沙射から視線をはずして、卓上の墨を見つめた。
「消えたくなかっただけだ」
 そっと……蝋燭の炎を揺らさないように、とでも言うように小さく、ル・アが呟く。
「女を全員キラ・シに取られた二つの部族。もうこちらから仕掛けることは予定に無かった。あちらから、仕掛けてきた。父上は一三歳で戦に出た。向こうの戦闘員に族長も長老もいたから、父上がおかしいと考えて全員の手を止めさせた時、彼らは誰一人生きてはいなかった。彼らの土地には、誰もいなかった。自分の部族が消滅したことを知って、攫ってきた女達も自害した。一人は父上の子を身ごもっていたのに、だ……父上が狂ってしまうのではないかと心配した、とリョウ・カが言っていた」
 ル・アの声が震えていた。
「女を殺した男は、普通なら生皮を剥いで崖に吊す。父上は、女達が死んだのを自分のせいだと……苦しまれたらしい。その死んだ女から産まれたのが俺の母、ル・マだ。キラ・シで百年ぶりに生まれた女児だ。父上は溺愛したらしい。まだ危ない大陸にも連れて来た。俺を産んで、死んだ」
 ル・アは囁くように、沙射から視線をはずした。
「父上は俺に、母上の名前を、そのまま、つけた」
 ル・アが、握っている沙射の指先に口接けた。
『父上もサル・シュも、長老に逆らって大陸に降り、俺をこの世に産んだのだ』
 そう、ル・アから聞いたことが、沙射はあった。
 あれは、この、こと?
 自分の母親が、実の父の娘?
 ガリ・アは、自分の娘に、ル・アを生ませた?
 それは、大陸でも、禁忌だ。
「俺は、キラ・シのために、産まれた。キラ・シが大陸に根付けば、それで、いい」
 それは、死んでもいい、ということ?
 禁忌の子供だから?
 倣いにはずれた子供だから?
「生きて……下さい……」
 沙射は泣いた。
「あなたの傍に、居たい……です……」
 ル・アが、抱き締めてくれた。
 ありがとう、と、囁かれる。
 なんの愛撫もなく、ただ、ただ抱き締められた。
 最初の日もそうだった。
 沙射の親族を殺したのが自分の父親だ、と、自分が憎いか? と確認して来た、ル・ア。
 嫌いになったのなら離れてくれ。
 そう、暗に突き放していたのだ。
 変えられない事実だから。
 罪だと、自覚しているから。
 ガリ・アが沙射の親族を殺したのは、ガリ・アの罪だ。ル・アのそれではない。
 ル・アの母がそうなのも、ル・アの罪ではない。けれど、罪の結晶では、あるのだ。
「あなたは、誰より綺麗です……」
 沙射は、そう告げるのが精一杯だった。
「御自身を、罪だと、思わないで……くだ……さ…………い……」
 初めて、沙射からル・アに手を延ばした。
 その体を抱き締めた。
 抱き締めた。
「キラ・シ語は覚えなくて良いと言ったが…………」
 沙射の背中をゆったりと撫でてくれる大きな掌。爽やかな声が、沙射を落ち着かせてくれる。
「一つだけ、覚えて欲しい……」
 ル・アの掌が沙射の頬をそっと抱き締めた。ゆっくりと、体を押し離され、離れたくなかったけれど、ル・アの顔が見たくて瞳を開ける。
「ル・ミ・ア…………」
 甘い声で囁かれる。
「あなたを愛してる、というキラ・シ語だ」
 ル・アが、うっとりと見つめてくれていた。
 煌々と輝くような黒い瞳。
 くちびるを触れ合わせただけなのに。
 二人の間で、世界が溶けていくようだった。



 ■ 王都 初冬


   □ 雨が化けた雪


 バツ……バツバツ……バツ……
 初雪からしばらくして雪が降った時。
 ル・アが回廊への扉を開けたので、出るのかと沙射が踏み出した。すると、長い腕で止められる。
「この雪は濡れる。出ない方が良い」
「雪が……濡れる、の、ですか?」
 沙射はル・アの言葉がわからずに彼を見上げた。
 羅季には雪は降らない。沙射は王都に来る時に、掾吏で初めて雪を見た。地平線まで真っ白になって、素晴らしい景色だと思ったのだ。
「耳をすませて見ろ」
 ル・アが天を見つめている。
 バツ……バツバツ……バツ……
 人が枯れ草を踏みしだくのより軽い音が、沙射にも聞こえた。
「これが……雪の、音? ……なのですか? なぜ?」
 雪とは静かなものではないのか? 沙射は夕羅と同じように天を見上げた。沙射が掾吏で見た雪は、無音だった。
「冬の雪は音が無い。天から降って来るからだ。天の雪だ。秋や春先の雪は雨が雪の振りをしている。だから、濡れるし、音もする」
「雨が……雪の振りを? それは、キラ・シで言われることですか?」
「キラで言われることだ」
 部族の伝承ではなく民族全部がそう考えているらしい。
「大陸では四行だと『地水火風』、五行だと『木火土金水』だろう? 水が木を育て、木が火を育てて、火が土を育て、土が金を育て、金が水を育てる」
 ル・アの言葉に沙射は頷いた。多少違うが、今ル・アが意図していることはその先だろうと糺すのをやめる。
「キラにも似たような『決まり』がある。男は輝く星。女は瞬く星。そして大陸から言えば四行、なのか五行なのかはわからないが、『天地火雨』がある」
「『天地火雨』? 『水』ではなく『雨』ですか?」
「そうだ。山では、『水』と『雨』は別物だった」
 水と雨が別? 沙射は軽く混乱した。
「原始、天は暗く、地は荒野だった。互いに手が届かないけれど、目の前にある天と地。そこで、地は炎で天を焦がそうとし、天は雨で地を凍らせようとした。けれど、火は天に奪われて太陽になり、雨は大地に溜まって木々を芽吹かせた」
 キラ・シの世界観なのだろう。天と地が争っていたというのは沙射は聞いたことが無い。とても興味深かった。
「天は明るくなり、地は荒野を緑で充たされた。互いに互いが有用だと理解し、地は炎を、天は雨を互いに与え合っている。
 ただ、天と地が溶け合えないのは昔と一緒。お互いを認め合っただけで、仲が良い、という訳ではない。天が明るくなったこと、地に緑が芽吹いたことで困ったものがある。
 天に吸い込まれた炎が地に戻ろうとして山火事が起こった。前は簡単に地に戻れたのに、地の表面に木々があったから、地に戻るためにその木々を炎が焼き払ったんだ。以前の地は、炎が表面を舐めずっても痛くも痒くもなかった。何も無い荒野だったからな。だが、木々は炎に悲鳴を上げた。
 自分は地から生まれたのに、同じく地から生まれた炎に傷つけられた。木々は、地に助けを求められなかった。天に請うには遠過ぎた。そこで、『風』を産んだんだ。
 その風が竜巻となって炎をかき消した。だが、風は木々の友でもなかった。木々も、その竜巻で根こそぎ巻き上げられた。
 天にも地にも属さない風が間に生まれたことで、天と地はもっと遠くなった。
 だから、そのうち、地からの炎が天へ届かなくなり、天からの水は地に届かなくなり、天は暗くなり、地は枯れるだろう、と言われている」
「……壮大な天地創造ですね……『天地火雨』に『風』が入って五行ですか」
「四行なのか五行なのかわからんが……キラの言い伝えではそうなっている。
 雨は、地が漉して初めて水となる。雨は不味いが水は美味い。雨は降ったり止んだり、目茶苦茶に降ったり霧になったり、する。あれは間で風が水を奪って地に逆流させているからで、天からの雨は無理なく綺麗に降ると言われる。虹が出る時の雨が、天からの雨だ」
「虹というのは、こちらに来てから何度か見ました。美しいものですね」
「背が赤く、腹が青い竜が天に昇ったのだと言われる。ここでもたまに見るな。羅季では見なかったのか?」
 この時代の人たちは知らないが、虹というのは大気中の水蒸気量が多い時に、背中から太陽光が当たると見える。羅季城は大陸の西の果てで、城の西はすぐに岩壁だ。太陽を背にしては岩しか見えない。麻美は夕暮れ時の露を嫌い、その時期に沙射を外に出すことは無い。虹自体は湿度の高い羅季でも出ていたが、沙射のいる場所が場所なので見る機会が無かっただけだった。
「見たことはありませんでした。初めて見た時は目を疑いました。五色の光が門のようにそびえていて……驚きました」
 バツ……バツバツバツ……と低く雪が音を立てる中、扉を開けたままなので冷えて来たが、ル・アが天を見上げているので沙射も何も言わなかった。
「五色? 虹が、五色? なぜ?」
「なぜ……と言われましても……」
 先程、ル・アが虹を赤と青の竜と言っていたことを、沙射の方こそ思い出した。
「……キラ・シでは、虹は赤と青の二色なのですか?」
「そうだ。大陸では何色で五色なんだ?」
「赤黄白黒青です」
 ル・アが沙射を見て天を見た。そこに虹は出ていない。バツバツと雪が落ちてくるだけだ。
「……赤と青の中に別の色を見ているということか………ふむ………………」
 ル・アは妙に納得している。そう言われて沙射も、ル・ア達キラ・シが真ん中の色を見ていないだけだと言えば、赤青の二色になるのだと納得した。
「虹一つでも、キラ・シと大陸では見え方が違うのだな…………だが、他のキラ・シの前では言わないでくれ」
「それは……はい……」
 こんな話は元より誰にもしないし、他のキラ・シとは言葉が通じない。
「キラの伝承では、虹は『肯定の竜』なんだ」
「肯定の竜? ……とは……」
「誰かが何かを言った、その時に虹が出れば、それは神が許した、ということになる」
「……それは、人を殺しても、ですか?」
「そうだ。だが、今思えば山ではよく虹が出た。みな、神に見護られているシルシとして崇めていたが……大陸ではあまり見えないから、不安がっている者もいる。
 だからみな言うんだ」
 ル・アは天に手を延ばした。
「大陸には神がいない、と」
「はい、いません」
 それは沙射も断言した。ル・アが少し、悲しげな顔で沙射を見つめてくる。
 大陸には川が少ない。湿度が低い。黄砂で乾燥し、汚れた空には、虹は出にくいのだ。水が豊富で森に囲まれていた、湿度の高い南西やキラ・シの山では、光に背を向ければ虹が見えた。虹が神に見守られているシルシと見るならば、とても不安になるだろう。
「羅季の人々が信仰するのは、『先人』つまりは、祖先や聖人であって、無形の神ではないです。神というものが何か、わたくしにはわかりませんが……」
「が?」
 沙射の否定にル・アはまた天を仰いだが、繋がれた言葉に視線を落とす。
「先程ル王子の仰った、天と地の闘争などは、とても理解できました。天の神と地の神がいる、ということですよね?」
「そうだ」
「山は、素敵ですね。神に護っていただけるなんて」
「いや……神は『護って』はくれない。そういうものじゃない」
「そうなのですか?」
「そうなのです」
 こっくりとル・アが頷く。
「今、見護っていると仰いましたよね?」
「見ているのと護っているのは違う。それは正しい、と教えてはくれるが、間違ったことをした時には何も言わずに殺される」
 ル・アが天を見上げた。
「大陸の信仰は、死んだ先祖を敬えば、先祖が自分達を守ってくれる、祭礼を怠れば祟られる……というものだろう?」
「はい。簡単に言うと、そうです」
「山での『神』は……簡単に言うと祟るだけだ。護ってくれはしない」
「……それは…………大変ではないですか? それでも神を祀るのですか?」
「だからこそ祀る。怒らせないために。近くに乱暴者がいたら、嫌いだけど怒らせないようにするだろう? それと一緒だ。
 日の神が出てきてくれなければ、山は凍ったままだ。山の神が眠れば木々に実りは無い。風の神が怒れば火の神を呼び、山が焼け落ちる。水の神が怒れば矢流ですべて流れてしまう。雪の神が怒れば……埋められる……地の神が怒れば、山が崩れる…………それをして欲しくないから、人は祈る。神を崇める。
 大陸の感覚で言うと、神は巨人だ。巨人の世界に小さな人が迷い込み、そこで生活している。巨人からすれば人は、俺達が蟻を見るようなものだ。目に留まらない。だから神が踊れば地は揺れるし、踏みつぶされる。
 だが地が揺れたのは別に人間が悪いことをしたからではない。悪いことをしてそうなる場合もあるが、神が騒げば地は騒ぐ。
 神に供物を出す時は必ず火を灯し、生木でくべる。煙を出して、上にいる神に供物を置いたことを知って貰うためだ。蟻が巣を作っているのを、わざわざ壊す者はそういないだろう? 『いる』と知って貰うことが大事だ。そのために神を崇める。神に捧げる。こちらに来ないでくれ、と願う」
「神というのは……大変ではないですか」
「大変だ。神がいなければ人は生きて行けないが、神がいるからこそ、大変だ。
 神の小指と薬指の間が、人には超えられない山だ。動いて初めて、それが神の足だったと知る。山だと思って知らずに指に登れば、神が歩いた時にまったく別の場所に連れて行かれる。それを『神隠し』と言うんだ。たまに、本当に突然まったく知らない者が山に沸いて出ることがある」
「こちらではたんに『人さらい』でしょうね……」
「人さらいならば、なぜ捨てていく?」
「考えたくはないですが、邪魔だったのでしょう」
 ル・アはわずかに目を丸くして、その後頷いた。
「山では、人を攫ったのならば捨てていく道理が無い。邪魔も何も無い。人を攫う理由は、自分の部族に加えるためだ。置いていくのはおかしい」
「攫われては大変ですよね」
「大変だ。したものがわかれば戦争だ」
「……戦争ですか? 一人が攫われただけで?」
「大陸は人数が多いから気にならないのかもしれないが、山では、一部族が一〇〇人を超えることはまず無い。キラ・シぐらいだ。そこで一人攫われて黙っていれば、みんな攫われて部族が消える。負けるとしても、相手の数も減らさなければ、戦士ではない。山では、戦士でなければ生き残れない」
「戦士でない人はいないのですか?」
「子供と長老と女以外は戦士だ。戦士の数がへれば、それらを護れない。それらを護れなければ次代が無い。つまりは、当代でその部族は滅びる。自分達が滅びるとわかれば、命を賭けても女や子供を攫いに行く。勿論、戦争だ」
「他の部族から攫った子供は、その部族の子供ですよね?」
「攫ってくればこちらの部族の子供になる。なぜなら、こちらの部族の習慣や言葉を教え込むからだ。そして、そうしないと子供達は生きて行けない」
「生まれの村と、攫われた村が戦争した時、子供達は生まれの村を応援しませんか?」
「それをすれば攫った村の者に殺される。そしてそれを子供にされて負ける部族なら負ければ良い。子供は勝つ方に着く。それだけの話だ」
「子供の取り合いですか」
「そうだ」
 天を見上げたル・アが、ふと沙射を見た。
「大陸には『血族』というのがあるな。あれはキラには無い。その時点でその部族の縄張りにいる者達が、その部族の者だ」
「けれど、族長は世襲なのでしょう?」
「世襲ではない。族長の子供が強いことが多いから優遇されるだけの話だ。族長が死んだ時に一番強い者か、その強い者が指名した者が族長になる」
「リョウ殿が、キラ・シも、一般的には長子相続だと仰っていました」
 ル・アが右眉をきゅいっと引き上げた。
「まぁ、それもだから、一の息子が強いことが多いから言われるだけで、掟ではない。それと、リョウ・カに羅季語で難しいことを聞いてやるな。いっぱいいっぱいなんだ」
 ル・アがかすかに笑う。
「では、ル王子が族長になられることもあるのですよね?」
「それは無い」
 ル・アは即答した。
「そうなるとすれば、父上がお亡くなりになった時に、サル・シュかリョウ・カが俺を指名するということだろうが、俺が断るから、無い」
「お断りになられるのですか?」
「お断りになられるのです」
「なぜですか?」
「族長になんかなりたくないから、しかあるまい?」
 ル・アはニコ、と沙射を見て、天を仰いだ。
 『なりたくないから』と言われては、なぜですか? ともきけない。
「よく、そうして天を仰いでおられますよね。何をご覧になっていらっしゃるのですか?」
 ル・アが驚いたように沙射を見た。
「ああ、そうだな。天を見ているのは……癖、かな。サル・シュがよくそうしていたから」
 その名前に、沙射はわずかな不快感を覚えた。
「空には間違いなく天の神と風の神がいるから、その動きを注意して見ておけ、と言っていた」
「……雲も神ですか?」
「雲も神だ。この形の雲が出れば雨が降る、雨が降るから先に雨宿りできる所を探す。そうしないと、山の雨は身が凍るから命に関わる。この雲が出れば強い風が吹く。崖を馬で走っていれば吹っ飛ばされて、これも死ぬ。だから、崖から離れなければならない。屋根の置き石を増やさなければ、屋根が吹っ飛ぶ。屋根が飛べば、家の中でも火を焚けない。寒い時期なら凍え死ぬ」
 すべての現象の末路が『死ぬ』と続く山の暮らし。幽閉されていたとは言っても、自分はとても安楽に過ごさせて貰ったものだ、と沙射は感謝した。
「……恐ろしいだけではないですか…」
「そうか? 『次に何をする』と報せてくれている分、優しい」
「優しい……の、でしょうか?」
「あなたは道を歩く時に、そちらに向かいますよ、と蟻に言うか?」
「蟻に、ですか? ……言いません」
「神はそれを言ってくれる。寛大だ」
「蟻程小さくなければ、どうでしょう?」
「どうでしょうとは?」
「人とて、犬や馬が進行方向にいれば、追い払いますよね。神が人に示唆を出すのは、そういうことではありませんか?」
「人には犬や馬は見えているし、犬や馬にも人は見えているよな?」
「そうですね」
「神の姿を見た者は、いない」
 掌を広げて、ル・アは天を指し示した。
「人の目に見えない、ということは、神は人と比べて、とても小さいか、とても大きいかだ。小さければそんな強い力は無いだろう。人が踏みつぶして神が消えてはこの世界は存在しない。ならば、見えない程大きい。それしか無い」
「どれ程大きいとお思いです?」
 どんなに大きくても足が見えるではないか、と沙射は思う。
「キラ・シがいた山を西鹿毛山脈と言うだろう? あれは大きいよな」
「はい。踏破不能の天険です」
「あの山が、足の親指の高さより小さいと言えば、巨人さはわかるか?」
 沙射の意識が、天空を飛んで行った。
「では、この大陸は全部その巨人の足の下ではないですか」
「海の向こうに右足、山の向こうに左足だ。指の間に雲があるとすれば、立っていても足すら見えない」
「…………確かに……」
 途方も無い大きさを想像させられて、沙射は目眩がする。
「そ……それは、キラの伝承なのですか?」
「いや、俺が考えただけだ」
「王子が? 何故?」
「なにゆえ……って…………見えないぐらい大きいというのはどんなものかと考えたら、そうなっただけだ。人には、見下ろせば蟻がいる。想像はたやすい」
「たやすくないですよ……」
 そんなことを簡単に言わないで欲しい。『大きさ』の許容量が違うのだ。西鹿毛山脈を一跨ぎ、ぐらいは語り法師でも歌うことがある。だが、あの巨脈が親指の大きさと言うのは法外過ぎた。
「人間なんて、神から見れば、石の裏にくっついている地虫にすぎない。それに、次は雨が降るとか風が吹くとか、教えてくれるだけ、人間より優しい。人間は、地虫を押しつぶすことに頓着しない」
「そんなことをしていては歩けませんよ……」
「あなたでも、そうなのだな」
「わたくしでも……とは?」
「優しそうに見えるから、生類すべてに哀れみがあるのかと思ったが……存外殺伐としているのだな」
「わたくしは……自分を優しいと思ったことは一度もありません。優しく見えるというのでしたら、ありがたいことですが、それを前提に行動されるのは心外です」
「そうだとはわかったから、あなたに甘えることはしなかった。芯が強い。いつまで経っても是と言ってくれぬ、強い人だ」
 ル・アは沙射の襟足をふわりと撫でて、同時にくちびるにもくちびるで触れてきた。そのまま濡れた庭に出て手足を延ばす。
 女官が、沙射が外に出るものと思い、外套を着せ掛けてくれた。
 それだけ? と思ってしまっていたことに、沙射はくちびるを噛む。いつもならもっとたくさん触れてくれるのに。
 ル・アは、女官がいる所で沙射を表立って口説くことはしない。その上で、いつでも邪魔が入る。
 邪魔……と感じていることに沙射は自分で気付いた。
「この靴では、無理だな」
 ル・アが回廊から庭に足を下ろそうとして下がってきた。一緒に降りようとした沙射を部屋に押し込める。
「雪で庭が水浸しだ。そんな靴では降りない方が良い」
 沙射を止めたくせに、ル・アは降りようとした。ル・アの右肘を、沙射が引き止める。
「どちらへいらっしゃるのです?」
「外の空気を吸ってくる。帰ったら文字の練習だ。あなたは見本の文献を選んでいてくれ」
 沙射は、ル・アの手を離さなかった。
 ル・アが、振り返る。
 ル・アは左が利き手だ。左手を抱き留めたら振り放されたかもしれない。
 沙射の手を見て、沙射を見た。
 驚いていた顔が、一瞬で笑みに変わる。
 ナニ? というようにかわいらしく小首を傾げて見せた。
 沙射が一番好きな、ル・アの表情。
 沙射が何を言いたいかなど、ル・アはわかっているのだろう。
 それでもそれを先読みして行動することは、しない。
 言葉は、口に出したからこそ意味がある。
 キラ・シの世界にも『言魂』というのはあるのだ。
 私はあなたが好きです、愛しています。
 沙射がそう口に出そうとした。
 ル・アが沙射の背中で女官を追い払って女官が出て行こうとしたのと、廊下にドスドスと足音がしたのは同時だった。
「ル・ビアーっ!」
 いつもの、髭の宰相が、ゴンゴンと扉を叩いたのだ。
「ハッ!」
 と沙射が声を上げてル・アから手を離した。
「さっさと庭に降りていれば良かった……後悔先に立たず、というのはこういうことだな…………一つ、確実に覚えたよ」
 俯いて前髪を掻きむしりながらル・アが呟き、部屋に入る。
「すぐに戻る。書簡を選んでおいてくれ」
 沙射に言づけてル・アは扉に向かった。すでに女官が扉を開けていて、リョウ・カが帛を持ってずかずか入って来る。
『ガリ・アが、音拝の様子を見て来てくれと言っている』
『今すぐにか? なぜ?』
 ル・アは、一度沙射を振り返り、次の間にリョウ・カと移動した。リョウ・カの手に持っていた帛を取って読む。
『音拝の王弟が、兄がキラ・シに謀叛を企んでいる、と密告してきた。真意を調べられるのはル・ビアしかおらんだろう』
『…………確かに……』
 また大きな溜め息をつきながら、ル・アが正装を用意させる。
『何人で行く?』
『キラ・シ一〇人、羅季人五〇人。羅季人は先に出発させておいてくれ。全速力で走るようにな』
 馬と兵車では足の速さが違うため、兵車を先発させるのだ。兵車に苛々したル・アの案だった。彼らの飾り物一式を揃えさせている間に彼らを進発させ、キラ・シが飾り物を持って馬で走る。途中に宿泊する所で合流して飾り物をつけさせれば、二日短縮するのだ。そんな方法で進軍しているために、到着が速すぎていつも驚かれる。
 兵車が先発したその間に、ル・アは音拝について色々書簡を引っ張り出してきて読み返していた。
 沙射はただ、庭への扉を閉めて、選んだ書簡を寝室の卓に置き、机の脇の自分用の椅子にちょこんと掛ける。女官が沙射に白湯を作ってくれた。
 沙射には、ル・アとリョウ・カがなんの話をしたのかはわからない。
「あっ!」
 と隣室でル・アの大きな声がして、沙射が跳び上がる。大きな足音が近づいて来て、突然扉が開いた。
「沙射皇子、突然音拝に行くことになった。文字の鍛練は帰って来てからする。書簡を選んで貰って申し訳ないが、また今度だ。今日は部屋に帰ってくれ。帰ったらすぐに連絡する」
「音拝に……ですか?」
 そのまま次の間に戻ろうとしたル・アが、沙射を振り返った。
 こういうことは今に始まったことではない。
 ル・アが顔を隠して反乱を調べるのは良くあることだ。城の用事で突然出て行くことも珍しくはない。その時に、一度も沙射が引き止めたことは無かったのだ。
「……わたくしも、行っては駄目ですか?」
 口に出してから、沙射は自分の口を押さえた。
 何を言っているのだろう。ル・アは軍務で行くというのに。物見遊山ではないのだ、同行などできる筈が無い。
「では、分厚い外套を被って来てくれ。死ぬほど冷えるぞ」
『ル・ビア……サシャを連れて行くのか?』
『戦う訳でもあるまい。戦うにしても守って見せる。マキナ(ル・アの馬)に分厚い敷物を被せておけ。これらの書簡を読んだら行く』
 リョウ・カは頷いてキラ・シ礼をし、出て行った。
 翌日、ル・アが出発しようと馬場に向かうと、ル・アの馬に布が掛けられていなかった。リョウ・カに問いただすと、沙射が行けなくなったからつけなかったという。
『なぜだ? 皇子になんの用事がある?』
『車李の雅音帑王が来るらしい。沙射皇子に話があると先触れが来た。どうやら、昔、この王宮から下げ渡された宝を沙射皇子に返したいらしい」
『……そんな、ことっ…………』
 俺が帰ってからしろよ! とル・アは口に出しかけて、くちびるを噛みしめた。
 沙射の財産が増えることをル・アの一存で止めることはできない。音拝までは片道三日。調査に何日掛かるかわからない。雅音帑が来るまでに帰国できる保証が無かった。

 
   □ 御武運を!


 ル・アの部屋から帰った沙射は、麻美に用意を調えて貰った。
 用意よりも先に、麻美が反対したことに驚く。
「ル王子の傍だから大丈夫ですよ」
「あのかただから危険なのではありませんかっ! 何度も沙射様を口説いてらっしゃると、女官から聞きました! 人の目の届かない所になど行ったら……っ……」
「麻美」
 沙射は、彼女の細くなった肩を抱いて、まっすぐに目を見つめて、告げる。
「わたくしから、一緒に行きたい、と言いました」
「……沙射……さ……ま……?」
「わたくしは、ル王子をお慕いしています。これ以上は無い程に」
 そう口にしただけで、沙射の瞳から涙が溢れ出た。
 早く、ル・アに告げたい。
 あの長い腕で抱き締めて欲しい。
 もっと傍に来てくれると言っていた。それは、どんなに近くなのだろう。
「沙射様……」
「王子がなさりたいのなら、どのようなことでも、良いのですよ」
「そんな……っ……何をなさるかご存じないのでしょう?」
「無いですが、あのかたが、私に苦しいことをする筈がありません」
 麻美の視線が、沙射の顔の上をうろうろとさまよった。
「あ……でも……そんな…………亡き陛下になんとお伝えして良いか……」
 麻美の言葉に沙射は、それがそんなに重大事だと麻美が感じていることに気付いた。『亡き陛下』などと彼女は今まで一度も言ったことが無かったのだから。
「黙っていなさい」
 沙射は麻美に言い含める。
「父が生きていても、わたくしは同じことをしたでしょう。早く、用意をして下さい、麻美。王子を待たせる訳には行きません」
 沙射は強く言い含めた。
 以前、ル・アの前に抱えられて馬で森を駆けた。あの時も、刺客が突然襲って来てル・アは泣き笑いしながら帰ったものだ。
 今度は、わたくしの方から、申し上げたい。
 わたくしは良いのですから。
 女官がいても、誰がいても……
 ただ、あなたをお慕い申し上げております……と、伝えたい。
 その沙射の思いは、雅音帑の到来の知らせによりかき消えた。
「まぁっ! 御先祖様の宝物を御返還下さるなんてっ、雅音帑王様はなんて心ばえの素晴らしいかたなのでしょう! 楽しみですわねっ沙射様っ!」
 その報を聞いた瞬間、麻美はル・アと出かける一切の用意を片づけて。勿論、おでかきになどならずにお待ちしますよね? と無言だがにっこり笑ってうながしてくる。
 その知らせが一刻遅ければ、もう出発していたのに……
 沙射が溜め息をついたその時、廊下を硬い足音が近づいてきた。
「皇子、ル・アだ。いるか?」
 扉の外で呼ばわれて、麻美より先に沙射が扉を開けた。いつもは走ったことなど無いその勢いに、麻美が瞳を丸くしている。
「申し訳ありません、王子。私用で、御一緒することかなわなくなりました……わたくしの方からお詫びにお伺いするつもりでしたのに……」
「あなたが来てくれるより俺が来る方が早い。それにこれは私用ではない、皇子としての責務の一つだ。曜嶺皇家皇子を招待している手前、誰も止められない。気にしないでくれ。すぐに帰ってくる」
 沙射がル・アを見上げて、うっとりと微笑んだ。
「すぐに……帰って…………来る…………から……」
 沙射のあまりに美しい笑顔に、ル・アは無意識に腰をかがめてしまって……くちびるに、触れられた。
 沙射が、自分からル・アに接吻したのだ。
 あまりに、ル・アが美しかったから。
 沙射も自分のしたことがわからず、ル・アもされたことがわからず、二人で瞳を大きくして見つめ合って、……笑った。
「もう一度、今度は俺から、して、いいか?」
「はい……」
 ル・アのくちびるが近づいてくる。
 ル・アの体温が近づいてくる。
 ル・アの紅花の香りが、近づいてくる。
 長い指で腰を抱き寄せられ、長い腕に巻き込まれてくちびるを埋め尽くされた。
 沙射もその背に己の腕を回す。
 人を抱き締めることの心地好さを、初めて、知った。
 もっと……
 今までよりもっと、ル・アに近づいた気が、した。
「これがもっと近づく……という…………意味、ですか?」
「いや、もっとだ……もっと…………もっとあなたの傍に、行く……」
「もっと? これ以上どう……もっと…………ぁっ……」
 前後不覚になった沙射は、椅子に座らされてル・アの手を握り止めた。開いたままの扉の外に、キルシュが足踏みをしそうな勢いで待っている。
「すぐに、帰ってくる」
 沙射の頭を、その長い指でぐるりと抱き締めて、右の頬にチュッ、左の頬にチュッ、くちびるにチュッ……とくちびるで触れて、旋風のようにル・アは立ち去った。
「御武運をっ!」
 沙射は廊下にまろび出て叫んだ。
 今までに無い声で叫んだ。
「すぐに帰る!」
 聞こえたかどうかと思っていたら、ル・アの声が反響して聞こえてきた。
「御武運……を……」
 なぜかわからないけれど、沙射は涙が溢れた。




by 晶山嵐子 GIREN-1
▼友達に教える


↓こちらに感想を一文いただけると嬉しいです。
GIREN-1 投票所


GIREN-1携帯サイト
他にも無料で読める小説が一杯あります。
パソコンの方はGIREN-1へ。